【小説版】ビブリオちゃんは薦めたい 第1話①

ビブリオちゃんは薦めたい オリジナル小説

第1話 百鬼夜行シリーズ 著:京極夏彦 ①

 小説のなかにはたくさんの人が住んでいる。

 実際には無数の文字が連なっているだけだが、物語を読むということは、そこで暮らしている人たちと言葉を交わし、同じ世界を共有しようという試みに他ならない。自他ともに認めるビブリオマニアの本田奈那子にとって、現実に生きる人間と、小説に登場する人物の間に差はなかった。

 いや、中学・高校と進学してからはむしろ、仮想のキャラクターと接する時間のほうが大きく占めるようになっている。毎年新たに配置されるクラスメイトはみんな、セリフを与えられていないモブにすぎず、彼らはただの書割りであり、彼女らはたんなる背景でしかなかった。それよりも心躍る冒険をともにするキャラクターたちのほうが、奈那子にとってはずっとリアルに感じられるのだ。

 だから、学校の教室という極めて閉鎖的な空間で、大勢がひしめき合うなかにいても、ひとり孤独を感じることなんてない。

 本さえあれば生きていける。

 そう思っていた。

 だけど高校二年生になり、奈那子は文字ではなく、ひとりのクラスメイトを目で追いかけるようになっていた。

 男子生徒だ。

 名前を栞田悠太郎しおりだゆうたろうというらしい。

 本人から聞いたわけではなく、みんなが親しみをこめて悠太郎と呼んでいるのを耳にしたのだ。だけど奈那子には栞という名字のほうが印象に残った。

 栞は本に挟むものであって苗字に使うものではない。

 まあ奈那子も栞を模した髪留めを愛用しているけれど。

 とにかく。

 珍しい名字だなという感想を持った。

 それは、むりやり読んで書いたつまらない課題図書のように、たった一行だけの感想文で終わるはずだった。他のクラスメイトと同様に、すぐさま雑音に混ざり、色のない風景に変わるはずだった。

 だけど。

 悠太郎はいつまでも奈那子の前から消えてなくならなかった。

 本を読んでいてもなぜか目に入ってしまう。声が聞こえるとついページをめくる手がとまってしまう。そのたびに小説のキャラクターはただの記号に戻ってしまい、ちっとも頭に入ってこない。

 こんなことははじめてだ。

 物語に集中できず、奈那子は苛立ちをおぼえた。そして本人や周りにばれないよう本を盾にしながら『私の居場所を奪うな』と悠太郎を睨みつける。お門違いもいいところだが、いつか文句のひとつでも言ってやろうと企んでいた。

 しかしそれは叶わなかった。観察するうちに、悠太郎に対する感情がマイナスに向かっていないことに気づいたからだ。

 悠太郎はクラスの人気者で明るくて朗らかで、誰にでもやさしい。遊んでばかりいるように見えるが勉強もスポーツもそつなくこなす。少々だらしないかっこうをしているのが気にはなるが、完璧すぎないところがまた良い。どんなに強いヒーローにだってひとつくらいは弱点が設定されているものだ。

 退屈な出だしの小説かと思っていたら、読み進めるうちにどんどん引きこまれてしまう。いつしか奈那子は悠太郎から目が離せなくなり、教室で本を読むことができなくなっていた。

 私は彼に恋をしている。

 はっきりそう自覚するまでにそれほど時間はかからなかった。

 自分が誰かを好きになるなんて想像もしなかったけれど、知識だけは豊富に持ち合わせているので、これが恋なのだということはわかる。それでも、頭では理解できても、ここから先はどうしたらいいのか見当もつかない。

 困った。

 声をかけようにも何をどう話していいのかさえわからない。

 いわゆるハウツー本の類も読んでみたけれど、どれもまったく参考にはならなかった。ああしろこうしろと色々指南してくれてはいるけれど、書かれている内容はすでに知っていることばかりだ。新たに判明したことといえば、知識だけでは何も変えられないという事実と二の足を踏んでしまう臆病な自分の性格だけだった。

 恋愛小説のヒロインも相談にのってはくれない。頼りがいのない連中だと睨みつけてみても返事さえしてくれない。彼女たちは自分たちの物語にしか興味がないのだから当たり前の話である。

 同じように、悠太郎の目にも奈那子は映っていないのだろう。

 彼はときおりスマホを片手に何かを読みふけっている。彼女と連絡でも取りあっているのだろうか。その手中でどんなストーリーが語られているのかたしかめる術はない。ただ想像を巡らせることしかできない奈那子の頭のなかでは、ありもしない筋書きが浮かんでは消えていくだけだった。そして、それだけでもう気がそぞろになり、読書も勉強も手につかなくなっている。同じ教室内にいるだけで胸が締めつけられ、息ができないほど苦しくて仕方がなかった。

 どうすれば私は彼のヒロインになれるのだろう。

 私はただ、ひとりの読者として物語を追いかけるように、遠巻きに見つめることしかできないのだろうか。

 どうすれば――

 切に願っていると悠太郎と目が合った。

 気がつけば彼もこちらを見ている。

 あわてて奈那子は赤らめた頬を遮るようにして顔を伏せた。本を前に立て、ちいさな肩をすくめて身を隠す。

 どうしよう。見ていたことに気づかれた。視線を送りすぎたのだ。

 悠太郎は腰を浮かせ、席を立つとこちらに近づいてくる。

 奈那子はさらに身を丸めた。

 どうしよう。どうしよう。ぜったい変に思われている。何か理由を考えなくては。

 必死に言い訳を考えようとするが良いアイデアは浮かんでこない。心臓は張り裂けそうなほど高鳴っているというのに、血の気が引いて頭のなかがまっしろになっている。いっそ逃げてしまいたい。だけど体もいうことをきいてくれない。

 悠太郎はもう席の前まで迫っている。

 奈那子はかたく目を閉じた。

 悠太郎が何かを発しようとくちを開く。

 そこで廊下からひときわ大きな声がした。ほかのクラスの男子だろう。昼休みにサッカーをしようとかなんとか、そんなことを話している。

 悠太郎も誘われているようだ。男子と奈那子の間を幾度か視線を往復させていたが、やがて他のクラスメイトに引っ張られるようにして出ていってしまった。

 彼の背中を見送ると奈那子は胸をなでおろす。

 と同時にひどく落胆してしまった。

 せっかくのチャンスだったというのに。

 どうして隠れるような真似をしたのだろう。

 やっぱり私には恋なんて無理なのだ。

 読み終えた本を仕舞うように、奈那子はその胸にわだかまる想いを本棚の奥に押しこめた。

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