プロローグ 消えた人類
「臭い……」
「9……sine? それがパスワードか?」
「えッ? えェ、そうです」
エンターキーを押下した直後、とっさにユースケは嘘をついた。
セキュリティの解除音が鳴り、ホログラフィックディスプレイが起動して宙に浮かぶと、人工的な蛍光色が空間に薄明かりを灯す。プロンプトにコマンドを入力すると命令が承認され、無数のウィンドウが開いた。その画面上を白い文字の列が猛烈な勢いで流れていく。
「おお、さすがだな、おい。ええっと……オマエ、名前なんて言うんだっけ?」
また背後からマキオが声をかけてきた。
「ユースケ……です」
「あァ、そうだったな」マキオは太い声で笑った。「おい、ユースケ。もっとデカい声で話せよ。聞こえにくいじゃねェか」
「いや、だけど……」
「なにもそんなにビクビクすることはねェんだ。別にオレたちゃ疚しい事してるわけじゃねェんだからよ。緊急事態なんだ。神様だって笑って許してくれるさ」
「そういうことじゃないんですけど……」
「じゃあ、どういうことだよ?」マキオはユースケに顔を寄せた。
「それは、いろいろと……」
ユースケは口ごもった。肩をすくめ、愛用のミリタリージャケットにあごを沈める。生体チップが埋まった左手で鼻と口を覆い、考える振りをしながらキーボードへ視線を逸らした。後ろ暗い気持ちが自然とそういう態度をとらせたのだ。
どうも緊張感が足りない。現実のはずなのに、どこかリアリティに欠けている。まるで嘘みたいだ。ウィンドウの中を通過していく膨大なプログラムをトレースしながらユースケはそう思った。
疲労した肩に手をあて、首を回す。位置情報はGPSで確認済みなので間違いないのだが。自分の置かれた状況を再認識しようと現在位置を見渡した。世界の中枢機関、その内部を観察する。
通称『グランマ』。
全世界の意思決定を行っているマザーコンピュータだ。全人類を管理するために開発されたという究極のシステムであり、ほぼ人の手を借りずに自己修復を延々と繰り返しながら稼働し続けているという最古の人工知能である。おそらく全知全能の神にも匹敵するであろうその偉人といざ謁見しようという際にはどれほど心躍らせたことか。
しかし、巨大な吹き抜け空間の内部にあったのは、侵入した扉以外ではフロアの中央に設置されているモジュラージャックがひとつだけ。壁も床も天井も凹凸はなく、指を差し込む隙間さえない。どこに目を凝らしてもそれしか見つからなかった。
頭脳がない。
もちろん、人工知能はプログラムであって形があるものではない。マザーボードを始めとする各種コンピュータ類は壁の内側に収められているのだろう。まさかこの広間で、死に損ないの老人がサイコロを振って意思決定していたわけでもないのだろうが……立派なのは外観だけで中身がなにもないのだ。
なんだかバカにされているような気さえする。本当に騙されているんじゃないだろうか。ユースケは「ボクたちマスターはこんなものに管理されているのか」と憤るより落胆する気持ちの方が強かった。しかし今やユースケは、数時間前まで互いの顔や名前・素性も知らない、こけおどしの最高機関とは無縁の同胞たちから一身に期待を背負ってここに立っている。ユースケも彼らと同様、普通に生きてこなかったわけではない。決して世界の要人などではないし、ヒーローでもないのだが。
しかし、うっかり口を滑らせ、ある特技を持っていることを話してしまったために、この逼迫した状況において最重要人物に指名されてしまっている。
ある特技――それはハッキングだ。
犯罪だ。しかしそれは退屈凌ぎに始めた趣味で、時々他人のプライベートを覗いては「どんなヤツだろう?」と一人で勝手な想像を巡らせる程度だった。盗んだデータを流出させたり、悪用したりはしない。健全とはいえなくとも、平均から大きく逸脱しているわけでもない。
ユースケはどこにでもいるマスターだ。グランマに管理され、世界のごく一部を構成する微小な歯車と変わらないサイボーグの少年にすぎない。
だから、いくら永遠に生きられるとはいえ、自らの手で世界の秘密を暴く日が来ようとは夢にも思わなかった。その長い一生で立ち入る機会など永遠に訪れるはずのない世界の中心機関で、その中心内部で胡坐をかきながら、全世界の中枢を司るシステムに、端末からではなく直接堂々と不正アクセスを試みているのだ。現実感が伴うはずがない。
しかもこの行為、露見すれば極刑確定の重罪だ。当然、セキュリティも世界一厳重なのだ。だからグランマにアクセス成功できたのは奇跡に近い。革命を起こした勇者のように歓喜してもおかしくないのだが。
命懸けで開けてみたブラックボックス。
その中身は空っぽでした、では誰も納得しない。とくにマキオの目は血走っている。鼻息も荒い。もう後には退けないのだから仕方がない。
といって、彼らも死刑を恐れているわけではない。裁く者がいないのだから恐れる必要がないのだ。それはここ、グランマの内部に限った話ではない。
現在、世界中からマスターが消失しているのだ。
ほぼゼロに近い。もぬけの殻である。だからやりたい放題だ。どこでハッキングを行おうとユースケにしてみれば取るに足らない日常と大差ない。否、見つかるかもしれないスリルがないだけ普段より刺激が乏しい。否、否。それどころか日頃隠れて行っている違法行為を非難されるどころか、歓迎されているのだから拍子抜けを通り越し、しらけてしまうくらいだ。
しかし、だからといって自由を謳歌している余裕はない。
ユースケや、グランマに集まった他の消え残りのマスターたちを焦らせ、衝動的な行動に駆り立てている真の理由は他にある。
それは想像すればするほど致命的であり、絶望的なほど不可避な状況で目前まで迫っているのだが……しかしそんな未だ訪れていない危機よりも、ユースケは、
マキオから漂う有機的な臭いに苛まれていた。
だからマキオがどんなに急かしても緊張感が持てずにいるユースケの頭脳を支配しているフレーズは――
臭い。
心の底から願っている未来はどうか、
離れてほしい。というか、
消えてほしい。
彼も一部の臓器を除けばその殆どが機械であり、サイボーグのはずなのだが。人間って、現実ってこんなに臭うものなのか、とそんな事を考えていた。それは二次元の画面を通して得た知識では絶対に理解できない経験だった。
悪臭から逃れるため、ユースケは呼吸を止めながらハッキングを繰り返していたのだが、ロック解除と同時に我慢の限界を迎え、吐いた息と一緒に本音を漏らしてしまったのだ。
またわずかな隙を突いて呼吸する。
しかし、そこにマキオが息を合わせたように問いかけてきた。
「おいユースケ。ログとか保存しておかなくて大丈夫なのか?」
「必要ありませんよ。パスワードさえ憶えていれば……うッ――」
臭い。ユースケは悪臭にむせ返り、両手で口元を押さえた。胃の中にあったものが逆流し、その酸性の刺激臭がさらに容態を悪化させる。
「おいおい、いつまでも緊張してないでさっさと解析しろよ。オレの命が懸かってるんだぜ」マキオは必要以上に顔を寄せてくる。「その画面、オレが見ても何が書かれてるのかさっぱりわからねェ。きっと他の連中も同じだろうよ。まったく、使えねェ……」
自分自身に鈍いのだろう。異臭は、薄汚れた彼のジャージからだけではない。マキオが悪態を吐くたびに、その口から放たれる臭気がユースケの鼻腔を突き刺した。
耐えられない。涙が出る。つかまれている肩も痛くて仕方がない。焦っているから余計に力んでいるのかもしれないが。そもそも、その握力が強いのか、弱いのか、比較できる体験をユースケは積んでこなかった。
いつ以来だろう。こうして他人と接触するのは。そして会話をするのは。
「17年と361日、13時間21分47秒ぶりだよゥ」
アリアが応えた。彼女はずっとユースケの隣で佇んでいた。
「……アリア」
「何かな? ユースケ――じゃなかった。マスター」
「ユースケでいいって。それより――」
勝手に脳波を解析しないでくれ、と日頃から頼んでいたはずだ。
「えェ、どうしてェ? マスターの盗聴趣味に合わせようとしてるのにィ?」長い髪を揺らしながらアリアは大げさに首を傾げてみせた。
そこは真似しなくて良い。彼女の舌足らずな口調や態度にユースケはイラつく。マキオに見られないように横目でアリアを睨みつけると、モジュラーからケーブルを回収しつつ命令した。
「今は忙しいから黙ってて」
「あッそうですか。せっかく教えてあげたのになァ。このログ、大事なデータだと思うんだけどなァ」
アリアは頬を膨らませ、着ているエプロンドレスに皺が寄らないよう丁寧に折りたたみながらフロアに正座するとそっぽを向いて沈黙した。ユースケも彼女を無視してディスプレイに向き直る。
「記録もしなくていい。そんな事、自分で憶えてるから」
そう言ってみたものの、うまく思い出せないことは承知していた。生まれてこの方、おそらく生みの親との会話であろうそれを最後に、他人と会って話をするのはこれで二度目になるのか、と解き終えた微分方程式を眺めるくらいの感想しか持てなかった。
半永久的に生きられるマスターたちにとって、1秒前の過去は過去でしかなく、過ぎ去ったモノという意味でしかない。だからこれまでの人生で蓄積してきた思い出のすべては、二次元の画面上でしか見たことのない、古代に存在していたという紙の本と同じくらい価値がない。そんなデータは重たいだけで、記憶装置に負荷をかけるだけだ。不要なデータは即刻削除するに限る。
そうしたサイボーグ特有の傾向はユースケにも顕著に表れていた。彼は自分の誕生日すら憶えていない。先ほど苦労して割り出したパスワードでさえ、ロックが解除された直後にはもう、1文字残らず忘れてしまった。
「おい、ふたりで何を話してんだ?」マキオが鼻息を荒げた。「まさかオレを差し置いて自分たちだけ助かろうとか考えてんじゃねェだろうな?」
「いえ、特別な事はなにも」身を離しつつ、ユースケはアリアに目をやる。「彼女に少し学習させていただけです」
「学習? スレイブにか?」
「そうです」
スレイブはアンドロイドのことであり、マスターはサイボーグ人間の総称である。それらの名称は彼らの主従関係をそのまま意味している。アリアはユースケたちと違いサイボーグではない。純粋な機械だ。
「へェ……」マキオは興味深そうにアリアの顔を覗き込んだ。「純正のスレイブってのも最近じゃ珍しいよな。使いづれェだろうに」
「そうですね。でもボクはずっと彼女に育ててもらいましたから、気になりません」
マスターは子育てをしない。
代わりにスレイブのような機械が育ててくれるのだ。グランマによって管理されるようになって以降、それは常識となっていた。グランマにマスターとして登録されているサイボーグは様々な恩恵を受けることができ、生まれてからすべての時間を自分のために使うことができる。そのため労働という単語は完全に死語と化していた。
出産や育児・教育とゆりかごから、ほとんど死ぬことはないが墓場まで、他人に煩わされることなく、面倒な人間関係はことごとくオートメーション化されている。欲求を満たすために必要な全てのリクエストはネットワークを中継して行われており、必然的にひとりで過ごす時間が増えてしまう。しかし、それでもまったく問題なかった。グランマに依存してさえいれば、ずっと誰とも会わずに生活していくことができてしまうのだ。
したがって、言語や一般常識こそ知識として身につけているものの、実践的なコミュニケーション能力が皆無となってしまうマスターが大量生産されてしまうのは、マキオを例にとっても容易に想像できる。
一見不幸な身の上を語ったユースケの台詞に対し「ふゥん」と一言しか感想を漏らせない彼の態度は、世相を鑑みれば常識の範囲だ。模範解答といってもいい。
親の顔を知らなければ、隣人の名前も知らない。
ユースケだけが特別な環境で育ったわけではないし、彼が特殊な性格をしているわけでもない。むしろ他人の生活を覗いてみたり、出来の悪いスレイブに学習させてみよう、などと他人に関心を示す方が稀有なのだ。
自分以外の全ては自分のために存在している。
ユースケ以外の、常識的なマキオなどはそう信じて疑わないはずである。
「で、答えはまだなのか?」口は挟んでも、手は出さないマキオがしきりに急かした。
「もう少しです」
もう少しだから、手伝わないならせめて黙っていてほしい。
口が臭いから、とは口が裂けても言えなかった。烈火のごとく口角泡を飛ばされてはたまらない。だから、この忌々しい事態を終息させるには一刻も早く別の問題を解決しなければならない。そのためには今度こそグランマとの邂逅を果たさなければならないのだ。
ユースケは、深呼吸できない劣悪な環境に妥協しながら、マキオに汚染された空気で肺を満たす。精神を鎮め、ゆっくりとキーボードに左手をかざした。仄暗い未来を照らす一縷の希望となってチップが点滅を繰り返す。
世界を総べる人工知能が抱える全データ。
その記録がユースケの記憶領域に転送されていく。本来それは、取扱説明書の裏面に記されている但し書きのような、ちっぽけな存在であるユースケなどではとても抱えきれない情報量だろう。
そう覚悟していたのだが――
進捗を報せるプログレスバーはみるみる緑色に染まっていく。ポーン、と軽い音がして、ダウンロード完了を報せるウィンドウが開いた。
「どうだ、何かわかったか?」マキオが尋ねた。
「……」
「おい、ユースケ? どうした?」
「……」
ユースケは答えられなかった。言葉にしようとしても開いた口が塞がらなかった。
「おい、もしかして壊れちまったのか?」マキオはユースケの瞳を覗きこんだ。「だらしねェ。オマエまで使えねェのかよ!」
そう言ってユースケの両肩をつかんで揺らす。
……この期に及んで自分の心配しかしないマキオのリアクションはともかく。ユースケが言葉を失ったのは、データ量に耐えられずにオーバーフローしたわけではないし、ブービートラップでウィルス感染したわけでもなかった。
ダウンロードは正常に完了している。
ただ、取得したデータに愕然としただけだ。
残されていたのはグランドマスターからの置手紙が一通だけ。僅か20キロバイトほどのテキストファイルのみだった。この世界同様に、このグランマの内部同様に、
空っぽだった。
否、量より質だ。内容次第では解決の糸口がつかめるかもしれない。そう思い直してユースケはメールを開いて読んでみる。しかし、そこには愚痴のような、説教のような、呆れ返るような長文が綴られているだけだった。
内容はじつに簡単だ。要するにグランマは――
「逃げやがった……」ユースケはちいさく呟いた。
「あァ? 何だって?」
「あとはアナタたちに任せるって……」
こんな事実、どう伝えれば納得してもらえるのか。最後まで読み終えたユースケは静かにメールを閉じる。そっと後ろを振り返り、消え残っている者たちを盗み見た。
「もうダメだッ。きっとオレもここで消えて無くなっちまうんだッ!」
マキオが唾を飛ばしながらヒステリックに叫んだ。
アリアはユースケの脳波を通じてメールの内容を理解しているだろうが、命令に従ったままそっぽを向いている。
あとこの場にいるのは、リンという少女がひとり。しかし彼女は、ユースケよりも先にここにいたが、ずっと座り込んだまま独りで何かを呟いている。
一見、彼らの行動はバラバラだが、みんな一定の法則に従っている。それは全員が受身だということだ。自ら問題を解決しようという意志がひとりとして感じられない。
「どうするんだよ、この後始末……」
ユースケは頭を抱えた。いつから世の中はこんなヤツばかりになってしまったのだろう。そりゃあ全知全能の人工知能といえども逃げ出したくもなる。しかし、だからといって本当に逃げられても困る。
本当に困る。
「神様なんていないんだッ!」マキオが発狂した。
そのとおり。世界の主は不在だ。
ボクも逃げたい。ユースケは切にそう思う。
消失した人類同様に消えてしまいたいと願った。しかしそれはまだ叶いそうにない。逃げたくても逃げられない。
しかし、逃げたいと願う一方で、願っただけでは何も解決しないことも理解している。だからボクがなんとかしないと、とも思う。
思うのだが……
世界がグルグルと回転する。 マキオの悪臭効果も相乗して、ユースケは軽度のダウンロード酔いに眩暈がした。
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