医者の子として生まれた漫画家志望の女友達が、夢を諦めかけたときに立ち直った話【約5,300文字】
「『私の夢』ねえ……」
山崎楓は学校からの帰り道、一人つぶやき大きなため息をついた。
明日が憂鬱だ。
楓の高校では毎年スピーチコンテストが行われており、一年生はみんな強制参加となっている。そのスピーチのテーマは楓にとって今一番避けたい話題だった。
重い足取りのまま『山崎医院』の看板を潜っていく。楓の自宅で父の克也が院長を務める個人病院でもある。
父は腕の立つ医者だと評判で、遠方から訪れる患者も珍しくない。尊敬しているし、この家に生まれてよかったと心から思っている。元気になった患者さんから贈られてくる美味しいケーキやお菓子を頂戴できることも理由のひとつだったりするのだが。
「美味しいおやつを食べられるのは、お父さんがお仕事をガンバってみんなのお風邪を治しているからよ。スゴいでしょう? お医者さまって」
今日もケーキを頬張る楓に、母の恵が話しかけてきた。
昔から聞かされ続けてきたセリフだった。
ここまではべつにかまわない。
だけどその後に続くお決まりの文句が嫌だった。
「だから楓も、将来はお父さんのような素敵なお医者さまになるのよ。お父さんの娘だもの、きっと大丈夫。お父さんも私も、楓が白衣に袖をとおす日をたのしみにしているわ。だけど、そのためには学校でたくさんお勉強しなくちゃね。医学部って難しいんだから」
幼いころは何も考えず聞き流し、お腹いっぱいお菓子を食べて満足していたが、中学・高校と進むにつれ次第に苦痛となった。至福の時間に毎回聞かされる鉛のように重い言葉は、楓への期待の大きさを表している。両親は、一人娘が将来、父の跡を継いで医者になることが、楓にとっても幸せなのだと信じている。
そのとおりだろうと楓も思う。
肩書きと地位を得て、裕福な家の跡取りになる。
これ以上の幸せがあるだろうか。
わからない。
わからないから、楓は反論しなかった。
※
翌日、7時間目にスピーチの予選会が始まった。
これはクラス内で出席番号順に発表していく。
楓は43番目で最後だった。トリでもとくに緊張はない。選ばれようともまったく思わない。用意した原稿をただ淡々と読みあげていく。
「……なので私は、父親の跡継ぎとして生まれたその日その時から医者になる運命で、それが私の夢です。以上です」
パチパチパチと適当に拍手が起きた。スピーチが始まって2時間近くも聞かされているのだ、飽きて当然だろう。堂々と机に突っ伏している男子もいる。
7時間目はとっくに終え、ホームルームも使い切り、ロスタイムは大幅に過ぎている。
楓も早く帰りたい。
原稿をたたみ、そそくさと席に戻ろうとした。
「……なんか変」
笹原凛がポツリと言った。小さなつぶやきだったが彼女の声はよく通る。一日中おしゃべりしていても飽きない愛すべき親友ではあるが、今だけは黙っていてほしかった。彼女のたった一言が教室中に、そして楓の脳内に響いた。
「何が変なの?」楓はかすかに苛立ちをおぼえ、眉間に皺を寄せる。
「いや、スピーチのテーマってさ、将来の夢だよ?」
「そうね。だから夢を語ったじゃない。それのどこが変なの?」
「もし私たちがおたまじゃくしだったらさ。成長したら絶対カエルになるでしょ? ひよこはニワトリになるし、芋虫は蝶になる。それは自然の摂理で選べない。でも私たちは人間よ。私たちはおたまじゃくしじゃないわ」
「ちょっと何言ってるのかわからないんだけど」
「職業は選べる。医者になるって決まってるわけじゃない、ってこと」
「あのね、私は医者の一人娘として生まれたの。小さいころからず~っと言われ続けてきたの!」
瞬間的に頭に血が上った。
教壇を下り、凛の前に立つと机に両手を打ちつける。
そして、人生で一番大きな声で叫んだ。
「将来は医者になるのよって! だから私は将来、夢とかへったくれじゃなくて医者になるの! 絶対に! 医者にしかなれないの!!」
ゼエゼエと肩で息をし、我に返る。
教室がしんと静まり、すべての視線が楓たちに集まっていた。
今間違いなく自分はひどい顔をしている。
一方、そんな楓に面と向かう凛は変わらず涼しげな表情だった。
「そうかなあ。まあ、楓がそう言うなら私としてはどっちでもいいんだけど。でもさ、スピーチのテーマは『私の夢』でしょう? 楓が医者になるっていうのはご両親の夢じゃない。楓自身の夢は何なの? それを発表しないと変だよ」
楓は唖然とした。開いた口からは何も言葉が出てこない。
楓はたしかに夢を語ったはず。そう思っていた。
だけど凛は変だと言う。
楓にはその違いが理解できない。
いや、理解したくなかったのかもしれない。
放課後のチャイムが鳴った。
気まずい空気が流れる中、先生が終了を告げる。短いホームルームを済ませるとそそくさと出ていき、そこで解散となった。
だけど、楓の頭のなかではずっと、凛の言葉が渦を巻いている。
――医者以外の道なんて……。
下校中も、帰宅してからも、これまで考えもしなかった可能性についてあれこれと巡らせた。やがて居ても立ってもいられなくなり、机に向かい、パソコンを立ち上げた。
昔から何度も見かけては見ないフリをしていた、主に女子学生向けの人気の月刊誌。その出版元のホームページを開くとコンテストの応募ページにアクセスした。その雑誌は、同世代の女子の間で流行っていて、楓も毎号発売当日に買うくらい愛読している。
楓の場合、読むだけでなく、自由帳に好きな登場人物を真似て描いたり、ときには架空のキャラクターを考えて描いたりもしていた。真っ白な紙にペンを滑らせて命を吹き込むのが楽しくて、でも誰にも言わずにいた密かな趣味だ。描いているときは時間を忘れ、暇があれば夢中で描き続けた。
それを職業にしている人たちがいることも、もちろん知っていた。だけど自分がなるなんて発想はまるでなかった。一人で描いて楽しむだけで完結させていた。何年間も続けて、読み切り漫画まで描いていたというのに……。
楓は仕舞いこんでいた気持ちといっしょに、鍵のかかった引き出しから原稿の束を取り出す。
「……私は、おたまじゃくしじゃない」
無意識に口からこぼれていた。
もう後に引けない。引きたくない。
応募フォーマットに必要事項を入力し送信すると、次に父の書斎に忍び込む。そこには大きな封筒がたくさん置いてある。一枚頂戴すると原稿を入れ、宛名を記入してカバンに仕舞う。翌朝、朝一の便に間に合うように早く起きて、最寄りの郵便局で投函した。
一日経っても願望は消えない。むしろより強固になったくらいだ。
楓にとって、人生で初めてきちんと自分の夢と向き合った日だった。
※
楓が父と母に想いを告げたのは翌年、高2になってからだった。
初めての投稿はあえなく落選したものの、決意を固めた楓はあきらめずに何度も挑戦し、晴れて新人賞に輝いた。優秀賞の特典として楓の作品が漫画雑誌に掲載されたその日、雑誌を片手に直談判……というより一方的に宣言した。
「お父さんお母さん、ごめんなさい! 私どうしても漫画家になりたいの! 医者も素敵な仕事だと思うけど、でも私がなりたいのは漫画家なの! これ見て、私の作品! 受賞したんだよ!」
「はあ……」
最初は理解が追いついていない様子だったが、楓の真剣な表情と雑誌を交互に見つめ、次第に状況を吞み込んだようだ。
「そうか……楓は漫画家になりたかったのか」
戸惑う母の横で、父は冷静にどっしりと座り直した。
めずらしくタバコをくわえ、ぼんやりと宙を見つめる。
「まあ……医者もそうなんだが、ああいう芸術だとか演劇だとか、実力がものをいう世界は食べていくのでさえ大変なんだろうなあ」
「そんなことはわかってる」
「歯を食いしばって追い続けて……運が良ければ手に職ができる。一生芽が出ないことだってざらだろう。そうなる覚悟はあるのか?」
「ある。それでも私は漫画家になるの。絶対に揺るがない! 弱音も吐かない! 認めてください、お願いします!」
楓は起立し、父の前で深々と頭をさげた。
父は何も言わず、腕を組んだままじっと座っている。
楓も動かない。
母だけが狼狽えている。
重い沈黙が支配する。
やがて父から小さなため息が漏れた。
やはり認めてもらえないのか。
だけど自分の気持ちを偽ることはできない。
認めてもらえないいっそこのまま家を飛び出してしまおうか。
そう思った。
だけど、
「……好きにしなさい」
尊敬すべき名医がそうつぶやいた。
「あなた」
「俺はもう寝るよ。明日も早い」
楓はお辞儀をしたまま瞳をグッとつむる。うっかり顔をあげると涙がこぼれそうだった。
※
その年のクリスマス、2学期の終業式を終え、楓は周囲に心配されるほどテンションが高かった。インフルエンザが流行り、多忙な父とはろくに話せずにいたが、イブには家族そった。そのディナーで突然、父からプレゼントを渡された。ラッピングを外し、箱を開けるとペンタブが入っていた。デジタルで作画を行う漫画家には欠かせない仕事道具である。
「これからの時代には必要だろう。楓のようなひよっこにはまだ早いかもしれないが、今のうちから使い慣れておいたほうが良いと思ってな」
そっぽを向く父の隣で、母がニヤニヤと笑う。
「お父さんね、看護師さんや患者さんに『漫画家に必要なモノって何でしょう』って聞いてまわってたのよ。私、仕事中にああいうのはやめてくださいって看護師長さんから怒られちゃったわ」
「ありがとう、お父さん。大事に使わせてもらうわ」
そう言って楓は嬉しさのあまり飛び上がって父に抱きついた。
父は小さな声で頑張れよと言った。
そして楓は高校を卒業し、漫画家・五十嵐みなとして新たな道を歩み始めた。
そのペンネームで”Mina”のサインを書くとき、「i」に特別な意味を込めた。上の点を大きくて黒い丸い点にし、下の棒にはチョロンと長い尻尾をつける。自身を生まれたばかりのおたまじゃくしになぞらえて。
※
――数年後。
とある事情で創作活動を休止している楓は、正月からオフィスにこもる凛のスマホにLINEを送った。
『楓@Mina さんからメッセージが届きました』
『楓@Mina さんから動画が届きました』
凛が、連投された楓からのメッセージを開く。
『あけおめ~凛、今年もよろしくね。早く会いたいな! そうそう、これ観て! 絶対今すぐ観て! 緊急!!』
凛が動画を再生するとディスプレイに小さな赤ちゃんが映った。
赤ちゃんは真剣な表情でヨタヨタと歩き、楓によく似た二重で大きな瞳を輝かせながら画面いっぱいに迫ってくる。旦那譲りのくせっ毛も愛嬌たっぷりだ。
『空たぁ~ん! がんばれ、がんばれ! あと少し! ……やったー! ママの所へ来られたね! 空たん天才! すごいよ! よしよし~♡』
「……何じゃこりゃ」
あきれたように凛が口をへの字に曲げた。
楓がくしゃくしゃと髪をなで回しているのは息子の空だ。
楓は、凛が動画を観終えた頃合いを図って電話をかける。
「凛? 動画観たよね!? 空たんがね、今日初めて歩いたんだよ~!!!」
「観たよ。観たから、そんな大声ではしゃぎなさんな」凛がスマホから顔を離して言った。「まあ良かったね。うん、おめでとう。ああ、ところで五十嵐先生、春からの連載よろしくお願いしますね」
「えーん、凛が冷たいよう」
「まったく、正月早々何事かと思ったわ」
出版業界に就職した凛だったが、彼女はブラックな労働環境に早々に見切りをつけ、個人で出版社を立ち上げている。その会社は楓、もとい五十嵐みなを筆頭に多くの人気漫画家と契約を結び、業績は順調に伸びているそうだ。
凛の会社に所属する多くの漫画家たちは楓が紹介した。
楓と凛と、生まれたての出版社を信用し、大事な原稿を託してくれている。
今では多くの読者を抱えており、作品の更新日にはホームページへのアクセスが集中し、サーバがパンクしそうになるのだとか。そのフォローなどもあり、昼夜も盆も正月も関係なく、年中仕事に明け暮れているのだそうだ。
それでも、出版不況の現代で生き残れる会社は少ないため、楓には本当に感謝していると言っていた。
もちろん楓も凛に感謝している。
楓は漫画家として人気を得つつ、同時に現在では超がつくほど親バカな主婦となった。在宅ワークが浸透しつつある昨今、主婦として家事や子育てと兼業する女性漫画家は多い。楓が安心して育児休暇を取れるのは、凛という頼もしいビジネスパートナーと応援してくれる家族、そして読者がいてこそだ。
「ほんとうに、ありがとうね」
「えっ、何か言った?」
「ううん、何でもない。それじゃあ、またね」
楓は恥ずかしさからそそくさと電話を切る。
そんな楓を見て空が不思議そうに首をかしげた。
その仕草がたまらなく愛おしい。ああ――
私の夢がここにある。たしかにそう思えた。
※
楓も凛も思い描いた未来とは違う道を歩んでいるけれど、後悔なんてない。
人生なんて理想通りにいく方がめずらしい。
それでもあきらめずに前へと進み続けた。
大事なのは夢を追う過程で、何をして、何を得たのかだと思う。
好きなことを見つけたら、できない理由を探す必要なんてない。
私たちは、おたまじゃくしではないのだから。
=完=
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