第32話 盲目の傀儡⑤
「危ない!」
急に外が明るくなり、膨大な熱を感じた。
タマキは咄嗟に着物を拾ってミコトの肌を隠す。その手を引いて幕から飛び出した。
零れた涙が蒸発し、次の瞬間に閨が炎に包まれ灰と化す。
崩れ落ちる天蓋の向こうから乾いた音が鳴り響いた。
煙を払って現れたのは黒武者、もとい人面を被った人ならざる者――ストーリーテラーだ。それは嗤いを堪えるように顔を歪め、柏手を打っている。
「やあやあ、百合や衆道にゃとんと疎いが女同士が抱き合ってる姿はなかなかどうして、見世物としちゃあ好いお笑い種だ。だけどよ、お嬢ちゃん。人の恋路を邪魔するってのは少々いただけねぇな」
「外道に云われたくないわ」タマキが云った。
「外道にゃ外道の作法があるのさ」
「貴方の一方的な押しつけよ。こんなの詐欺だわ」
「そんなことは無え。全て合意の上だぜ。そうだろう、お嬢ちゃん?」
ストーリーテラーはミコトに向けて云った。爬虫類のように舌を舐めるその様は生理的に拒否したくなる仕草だ。
だが返す言葉は無い。既に契りは交わしている。約款に捺印を押してしまった以上、契約を反故することは難しい。覆すだけの理由を見つけられずにいるのだろう、ミコトは黙り込んでしまった。
「違法も法の内というわけね」毅然と立ち上がり、タマキが云う。「なら私にも考えがあるわ」
「止めなさい。貴女が太刀打ちできるような相手じゃないわ。何とか逃れる方法を考えましょう」
ミコトがタマキの袖を掴んで引き止めた。
タマキはその手をそっと握り返す。
「大丈夫、貴女に掛けられた呪いは必ず私が解いてあげる。サクヤ様から最強の解呪の魔法を授かってきたの。私でもあんなヤツ簡単に追い払えるくらいのね」
「貴女、魔法が使えるの?」
「私も耳を疑ったけれど――見て、眼が合っているのが分かるでしょう?」
そう云ってタマキはミコトを見詰めた。
その双眸は確かに光を宿している。呪いが解けている証拠だ。
「ね? だから私を信じて。少しの間だけ眼を閉じて、耳を塞いでいて頂戴」
「……分かったわ」
ミコトは肯き、タマキの言葉に従った。
タマキは、ミコトに結界が張られたことを見届けると一歩前に出てストーリーテラーを睨みつける。
「さて、物語もいよいよ大詰めってところかしら」
「土壇場で主人公が不在ってんじゃあ、ちょいと締まらねえけどな」
「私にだって主役を張るくらいの度胸はあるわ」
「だがどうする。本当に魔法が使えるのかい?」
「さて、どうかしら?」タマキは不敵に嗤ってみせる。「さあ、もう一度警告するわよ。ミコトに掛けた呪いを今すぐ解いて、さっさとハクロ様の躰から出ていきなさい」
「厭だと云ったら?」
「力尽くで追い出すしかないわね」
「おお、怖え。言葉で勝てなきゃ力に訴えるわけだ」
「貴方だって使っていいのよ?」
「俺は博愛主義者でね。暴力は嫌いなんだ」
「どうだか」
「ふん、どうやって解いたか知らねえが何度でも呪ってやるさ。耳を塞ごうが眼を閉じようが俺の呪文から逃れることは出来ねえ。さあ、ふたりで――」
コ ロ シ ア エ
ストーリーテラーは喉を震わせ、魔法を放った。
脳を揺さぶるような不協和音。
耳を塞いでいてもそれは大音量で鳴り響く。
だが、それを掻き消すように破裂音が重なった。
タマキがストーリーテラーの眼前に立ち、その頬を打ったのだ。
「な――」ストーリーテラーは唖然として眼を丸めた。「何しやがる!」
タマキはさらにストーリーテラーの胸倉をつかんで引き寄せると、「煩い、黙れ」と目と鼻の先まで踏み込んで睨みつけた。
「手前……放しやがれ」
「厭よ」
「俺の言葉が聞こえねえのか!」
「ちゃんと聞こえているし、聞いているじゃない」
「手前、一体どんな魔法を使いやがった!?」
「私はただの医者よ。魔法なんて使えるわけないじゃない」
「なら何故、オレの呪文に掛からないんだ!」
「どうしてって……」
タマキは『こいつは何を云っているんだ』とばかりに小首を傾げる。
そして解呪の魔法を放つ。
それは凡てを無に返すような滅びの言葉だった。
それは総てをご破算に願うような最低の発言だった。
それは――
ただの言葉じゃない。
とタマキはそう云った。
「あ……」ストーリーテラーが絶句し、言葉を失う。
「たかが言葉と云い換えてもいいかもしれないわね」
時間が止まったように静寂が訪れた。
その凍りついた空間を溶かしたのは怒り狂ったストーリーテラーの怒号だった。
「て、手前――それを云っちゃあお仕舞だろうがッ。空気読みやがれ、この阿魔!」
「だって本当のことじゃない。脳に直接語りかけるですって? あり得ないわよ、そんなこと」
人体の構造はそんなふうに出来ていないのよ、とタマキは嘯く。
「鼓膜で受けた空気の振動を電気信号に変換し、脳がその周波数を音として認識・処理しているだけよ」
「さっきそこの女に云ってた台詞と違うじゃねえか!」
「相手によって言葉や態度を変えるなんて当たり前じゃない」タマキは悪びれもせず続ける。「言葉として通じてもいるし、意味も充分理解している。私には視えないけれど、言霊だって在ると云えば在るのでしょう。だけどやっぱりそれは、単なる言葉の綾に過ぎないわ。呪文なんて、無いと云えば無くなってしまう、解釈の仕方によっていくらでも変化してしまう、好い加減な道具なのよ。理解できるからといって、悪意を持って騙る者の言葉にまで真剣に耳を傾けてやる必要は無いわ。目には目を、歯には歯を――無法には無法で返す。それだけよ」
「神の言葉に逆らう気か!」
「神様なんて存在しないわ。貴方はただ傲慢で、潔癖症で、他人の過ちが許せないだけの小者よ。そんなヤツの術中に嵌っていたなんて、思い出すだけでも自分が情けなくなるわ」
「全知全能の神だぞ」
「ならば逆に問いましょう。貴方が全知全能の神だというなら何故――全てを内包するはずの神が世界の内側に存在しているの?」
「それは……」ストーリーテラーは言葉に詰まった。
「貴方はただの傀儡よ。貴方に世界を語る資格なんて無い。神の名を騙る偽物だわ」
「救えねえ魔女は殺して無に還してやる!」
「あら、都合が悪くなるとやっぱり手を出すのね」
「五月蝿え! その減らず口利けなくしてやる!」
「やれるものならやって御覧なさい。そうだ、どうせならこの大鎌を使いなさいよ」タマキは両手で鎌を持ち上げる。「私の細腕ででも運べたんだもの。貴方がほんもののハクロ様なら難なく扱えるでしょう」
「そ、そんなもの必要無え」
「まあ遠慮せずに。あらよ――っと」
タマキは躰を捻って勢いよく弾みをつける。
振り回すようにして鎌を手放した。
大鎌は弧を描きながら回転し、飛んでいく。
ストーリーテラーは慌てて手を前に出したが、受け損なって柄が直撃した。そのまま仰向けに倒れて下敷きになる。
「て、手前、殺す気か!?」
「呆れた。とんだへっぴり腰じゃない」
「俺は本より重たいものは持てねえんだ」
「あ、その言葉で思い出した。貴方にも渡すものがあったわ」
「俺にだと?」
「これなんだけど」
タマキは懐から洋綴じの本を一冊取り出した。
本革でできた装丁に題字はなく、鋲が穿たれ固く閉じられているため中は見えない。だがストーリーテラーは一目で青褪めた。
「まさか、それは――ネクロノミコン!?」
タマキが手にしているのは膨大な数の術式が記されている魔導書だ。
その奥付に挟まれている栞を引き抜く。
ネクロノミコンがタマキの手から離れ、妖しい光を放って宙に浮いた。
封印が解かれ、頁が開く。
「手前、それを何処で?」
「此処の書架に所蔵されていたらしいの。これ、私でも使える呪文らしいんだけど……諱っていうのね。なるほど、名前も言葉の一種ということなのでしょう。これで呼べばその者の人格を支配できるそうじゃない」
諱は転じて忌み名に替わる。
それは本名を指す言葉であり、親や主などしか呼ぶことが許されない。諱を口にするとその者の霊的人格を支配できるという考えがあるためだ。したがって、普段は字で呼ぶことが習わしとなっている。
「実名敬避俗は貴人や死者を敬うものだけど、貴方に遠慮する必要は無いわね」
「止めろ、その名で俺を呼ぶな!」
ストーリーテラーが慌てふためく。身を翻して逃げようとするが、鎌が重しになっている。尻を突いたまま両手を広げて云った。
「分かった、俺の負けだ」
「もう遅いわ」
「何でも云うことを聞くから」
「何でも?」
「そう。俺は全知全能のワイルドカードだぜ。だから死者にだって逢わせてやれる」
「別に逢いたい人なんていないわ」
「強がるなよ。一人や二人くらいだろう? 良く思い出せ」
「うーん……それは無理な相談ね」
「手前には情ってものが無えのか!」
「失礼ね。そんなんじゃなくて、物理的に思い出せないだけよ。私、全生活史健忘――いわゆる記憶喪失ってやつだから」
「何だと!?」
「あら、全知全能のくせにそんなことも把握してないんだ……」
「無いものは知りようが無えだろうがッ」
「それこそ私の知ったことじゃないけれど……まあ、とにかく。私は、医者になる以前の記憶を完全に失っているの。だから貴方たちが大切にしているモノを私は一つも持っていない。このタマキという名前でさえ、適当に付けた偽名に過ぎないの」
「な、なら永遠の命をくれてやる。これならどうだ!?」
「要らないわ。貴方と一緒にいるくらいなら死んだ方がマシよ」
「そんな――」
「私に貴方の言葉は届かない。何一つ響かないし、信じられない。貴方が語る物語は私にとって――偽物なのよ。本物にならない物語は――無意味な信号でしかないわ。それは何にでも化けられるのかもしれないけれど、貴方の実体はどこにも存在しないのよ。さあ、積年の恨み、晴らさせてもらいましょうか」
「止めろ、止めてくれ!」
「虚無の世界へ還りなさい――」
タマキは、ストーリーテラーの懇願を無視して本に手を翳した。
そして退魔の呪文を放つ。
嫌悪感を籠めてその名を呼んだ。
「ウムル・アト=タウィル!」
それは物語の中にしか存在しえない、人に創られし神の化身の名だった。
その邪神の名を喚ぶと、本から光の玉が現れた。
小さな太陽の如く七色に光るとハクロを照らす。足許から伸びた影が切り離され、黒い文字となって浮びあがる。
その記号の羅列こそが化身の正体だ。
ウムルは慟哭を上げて抵抗し、のたうち回る。
だが諱の力は凄まじい。
相手が何者であろうと、名前を支配されれば逆らうことは出来ない。
ウムルの躰が文字化けを起こし、分解された記号が本の中へ引きずり込まれていく。
「畜生。憶えておけ、人間。貴様たち人間が生きている限り、俺もまた生き続ける。時間も空間も俺には関係無い。何度でも現れて、貴様たちに問いかけてやる。貴様たち人間は存在している価値が在るのか? 貴様たち人間に――」
生まれた意味は在るのか?
と化けの皮が剥がれた人ならざる者は呪詛を吐き残して消えていく。
語り部の存在は過去となり、今という現実から離れて幻と化していく。
闇が渦を巻き、収縮すると邪神は音となって弾けて消えた。
空間の裂け目が塞がり、本が閉じられると断末魔は途絶える。
残されたのはタマキと、ミコトと、ハクロの躰。
静寂と沈黙を破ったのは光を取り戻したタマキだった。虚無へと還った神の化身を見送ると彼女は、本を手にしながらきっぱりと云い切る。
「破ッ、生まれた意味ですって? そんなもの――在るわけないじゃない。この白紙みたいに無意味な人生だからこそ、自分の物語は自分で綴っていくんじゃないの」
タマキは封の解けたネクロノミコンに視線を落とす。
そこには文字一つ無い頁だけが広がっていた。
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