第28話 過去の亡霊④
強い眩暈を覚えてミコトは瞳を閉じた。
暗闇だった礼拝堂が一転し、明かりで満たされていく。太陽ではなく、いくつもの光源がある。人工的な揺らぎだった。目蓋に突き刺さるほどの強烈な光から顔を背け、片手で傘を作る。そこで己の身に起きた変化に気が付いた。
「……躰が在る?」
額に指先の感触を覚えた。
幽体ではない。直接心が情報を受け取っているのではなく、五感を通している。
空気が流れ、肌を撫でる。
少し寒い。装束を羽織ってはいるが靴は履いていない。裸足だった。
石板から立ちのぼる冷気がどこか懐かしい。
重力にも逆らえない。だが、未だに痺れているような、夢を見ているような、そんな浮遊感が停滞している。
じっと神経を研ぎ澄ませ、感覚を取り戻す。徐々に各器官の機能が回復していく。
鼻腔を傾けてみれば煤けた松明と古書の臭いがした。
鼓膜に微かな振動を感じる。
「ミコト、そこにいるの?」
背後で名前を呼ぶ声がした。
若い女性だ。
小さいが好く通る、広い空洞の隅々まで響き渡るような高い波長だった。
ミコトは眼を細め、ゆっくりと振り返る。
その先には天蓋付きの閨がある。幾度となく眼にしてきたものだ。
玉座はなく、礼拝堂は地下牢へと姿を変えていた。
「ミコト、いるなら返事をして頂戴」
また声に呼ばれた。
声は天幕の向こうから聞こえてくる。
一度は耳を疑ったが、馴染みのある声だ。
返事をしようと思ったが、声にならない。まだ喉の震わせ方を忘れているのか……しかし、全身は感動で打ち震えている。
恐るおそる幕をたくし上げ、ミコトは結界の中に這入った。
そこには若い女が一人、毛布に包まり、柱に凭れて本を手にしていた。
女はミコトを見ると本を閉じ、胸を撫で下ろす。柔らかな笑顔を湛えながら云った。
「何だ、やっぱりいるんじゃない。返事がないと不安になってしまうわ」
「……申し訳ありません。少々喉の調子が悪くて」
「まあ、どうしましょう。感染してしまったのかしら?」
「いえ、ご心配なく。躰は平気です」ミコトは口許から手を離し、広げた。「奥方様こそ、お加減は宜しいのですか?」
「ええ、今日はいつもより調子が良いみたい。楽しい夢をずっと見ていたような……」
しかし、そう云って微笑む顔にはうっすらと汗が滲んでいる。
女は高い地位にある要人だが、幼い頃より肺を患っており、ずっとこの地下牢に隔離されている。人に伝染る病気ではないが、恐れる者は多い。
女は賢く美しい。良縁に恵まれたことで妬まれもしているのだろう。地下牢の魔女などと陰で揶揄する者もいるくらいだ。
だが、ミコトは正しい知識を持っている。偏見を持たずに接する数少ない理解者として女に仕えていた。また、女も、奴隷だったミコトを差別したりはしない。主従関係にあるが、付き合いも長く、信頼し合っている友人といえる。
ミコトは女の経過をずっと見守ってきた。一進一退を繰り返しつつ、病は女の躰を確実に蝕んでいる。半身を起こしているだけでも辛いはずだ。だが、それでも彼女は生きている。
息をして、ミコトと話をしている。
一度は死んだものと涙したのに――
奇跡と思えた。
否、魔法か――。
どちらでも構わない。
とにかく、世界が時間を遡ったかのように振舞っているのだ。
夢のような光景に、ミコトは涙ぐまずにはいられなかった。
「それよりもミコト。私は未だ奥方じゃないわ」女が気丈に笑う。「カンザキ様との婚姻の儀は未だ済んでいないのだから」
「嗚呼、そうでしたね。えっと……式は何時でしたっけ?」
「何云ってるの。明日じゃない」
「本当に……おめでとうございます……」
「大袈裟ね」女は首を傾げた。「どうしたの? 貴女らしくもない。今日は何だか様子が変よ」
「どうも浮かれているようです。遠くへ行ってしまった、古い友人と再会したような……」
「それって私のこと?」
「呼び方さえ失念してしまいました。奥方様、どうお呼びすれば宜しかったでしょうか?」
「これまで通りサクヤと呼んでくれれば良いわ」
「サクヤ様……そう、サクヤ様」
「ねえミコト。私はどこへも行かないし、行けないわ」サクヤがミコトの手を取った。「婚姻の儀が済んで、領主の妻となっても、ずっと私の傍にいてね」
「私のような下賤の者が出入りしていては、孰れご迷惑をお掛けしてしまうやも知れません」
「奴隷だったことを気にしているのね?」
「はい」ミコトは己の喉に手を当てた。
そこには消しがたい過去が刻まれている。
生まれた村はとっくに消失しているというのに……この身に彫られた入墨だけはどんな魔法でも消すことが出来なかった。
穢れた身を雪ぐことは叶わなかった。
「サクヤ様が眼をかけてくださらなければ、今頃どうなっていたことか……」
ミコトは遠い過去を振り返る。
名も無き入墨の娘だった頃だ。
村ごと消失し、帰る家を失った奴隷の娘は、黒武者の助言に従い、村を離れて街へ出た。生まれ変わったつもりで己を活かす道を求めたのである。
だが現実は厳しかった。
無事に街まで辿り着けたはいいものの、伝手はなく、身寄りもない。住み込みで働ける店を探したが奴隷の出身と知れればどこも雇ってはくれない。只で搾取されるだけだ。それでも手を差し伸べてくれる場所といえば娼館くらいしかなかった。
それは――厭だ。
どんなに飢えようとこの身を、魂を穢したくはない。食べるだけで満足したくない。助けてくれた黒武者の言葉だけを拠り所に、娘は他のどんなにきつい仕事でも泣き言を云わずに引き受け、懸命に働いた。爪に火を灯すような生活だったが、それは村にいた頃も同じだ。
だが、村にいた頃とは志が違う。
衣食に関わる最低限の生活費を除き、僅かな賃金の殆どを勉学に充てた。
勉強は楽しい。まるで苦痛ではなかった。
本を読み、文字を覚える。
村にいては一生出来なかったことだ。
夢中で知識の欠片を集めていると声がかかった。ある日突然、領家から手紙が届いたのだ。
そして、この地下牢へ誘われた。
騙された格好だが、結果的には幸運だった。僥倖とさえいえる。
入墨の娘は牢に這入って驚いた。無数の本が、知識が並んでいるのだ。此処には世界の総てが詰まっていると思えた。
サクヤと話して更に驚いた。此処に在る本は全て読み終え、内容も憶えているという。地下牢の才媛は、全知全能かと思うほど智慧に長けていた。
更に、共に過ごす中で、互いの境遇を打ち明けていく。事情を知っても同情はしなかったし、サクヤもそれまでと変わらず入墨の娘と接した。ただ、同じ視点の高さで話が出来る相手と巡り合えた幸運を感謝し合っただけである。
――私たちは孤独ではない。
互いの世界を交換し、共有できる。それだけで事足りた。満足だった。
そして入墨の娘はミコトという名を授かり、博識の魔女となった。
知識を得た今だからこそ解る。奥方様は本物だ。紛い物の私なんかとは格が違う。人類は、サクヤという偉大な天才を失ってはいけない。
たとえ世界が滅びても。
ミコトは本気でそう思っている。
サクヤの前で膝を着き、真剣な眼差しで彼女の手を取った。
「必ずや私が幸せにしてみせます」
「あらあら、うふふ。まるで求婚しているみたい」サクヤは可笑しそうに口許を緩ませた。「祝ってくれているのよね?」
「勿論でございます。ただ……変わっていくことが、今は恐ろしい」
「何も変わらないわ。私の世界の凡ては此処に在るのだから」
サクヤは手にした本をそっと撫でた。
天文に関する論文を読んでいたようだ。傍らに眼を転じてみれば、同種の本が何冊も積み上げられている。
他にもこの地下牢にはあらゆる種類の書籍が揃えられている。総てサクヤの為に、領主・カンザキが取り寄せたものだ。
稀代の天才は、幼い頃よりずっとこの地下牢での生活を余儀なくされている為、本物の蒼穹を知らない。サクヤの世界は、小さな文字の数々と、ミコトのように出入りを許された数少ない者たちと交わした言葉だけで構成されている。彼女にとっての宇宙は、その内面に広がっているのだ。それでも、ただ眺めているだけの者よりもずっと精確に天候を読むことが出来た。
まるで魔法のように。
サクヤが聡明な証であるし、また、聞き手となるミコトにも同じことがいえる。サクヤと過ごした時間だけ、ミコトにも知識が蓄えられていった。
「だからこれまで通り、此処で本を読んで、一緒に話をする。それだけで構わないの」
そう云ってサクヤははにかんだ。
言葉とは裏腹に寂しそうな表情である。眼を伏せ、足許をじっと見つめた。臥せっていることが多いサクヤは、肺だけでなく、足腰も弱っている。結婚しても牢から出ることは出来ないし、子を成すことも難しい。そう思い込んでいるのだろう。
彼女はこれから訪れる運命を知らないのだ。
誰にもこの神がかった才女を魔女などとは呼ばせない。
ミコトは意を決し、それぞれの未来を変えようとサクヤの手を取った。
「サクヤ様――大切なお話がございます」
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