第11話 死神の初恋⑧
栞には数行に亘って文字が刻まれていた。
ミコトから教わった文字の他に読めない文字が混ざっている。恐らく異国の文字だろう。
彼女が彫ったのだろうか。全文は以下のように構成されている。
此処はシェア・ワールド
誰かが語ったフェアリーテイル
だけどあなたが信じるなら
物語は本物になる
ハクロは首を傾げた。
――何かの詩だろうか?
文字は小さいうえに潰れたり欠けたりして判読できない箇所もあるが、しかし前後の単語を組み合わせれば全体を想像することができる。
栞を裏返してみるとそこにも文字があった。知らない単語だが、綴りからして人名だろう。
「サ……ク……ヤ……?」
詩の作者だろうか。
何故、書ではなく、栞に書いたのか……。不特定の者に読ませるためではないはずだ。密教的な信仰の対象だったのか、或いは……
ハクロは頭を振って否定する。
ミコトは巫女ではない。本人もそう云っていた。いくら異能で、異端で、人並み外れた知識を備えているからといって神仏と交信できるわけがない。
とにかく、全体から推察し、此処まででひとつの文章とみて間違いない。そこから何かしらの意図を汲もうと繰り返し文字を追いかけた。だが、本文に当たる箇所は損傷が激しいうえに、識別できる単語も訳し難いものばかりだ。内容自体が文学的ということもある。詩が何を意味しているのかハクロには読み解くことができなかった。
――ミコトはこの詩のことを知っているのだろうか。
ミコトは息を切らせて身悶えている。意識こそあるものの、とても意訳を頼める状態ではない。
早く医者に診せなくては。だが、ただでさえ実体の伴わないミコトに通常の医療行為が効くのかどうか。彼女の出自や症を治す手掛かりがこの書に記されていると好いのだが……いくら考えても答えは出ない。恩人が衰弱していく様を前にして、時間ばかりが悪戯に過ぎていく。手を握ってやることさえままならない己の無力を呪いながら、しかし他に妙案は見つからない。
書と栞を手にハクロは、縋る想いでミコトに訊いた。
「ミコト、俺に出来ることはないか? 何でもいい。教えてくれ。頼む」
「……その本は」
「ミコトと出会ったあの日からずっと隠し持っていた。すまない。断りもなく読もうとした」
「どれほど隠しても知りたがるのね」
「ミコトが苦しんでいるのを見過ごすわけにはいかない。俺には貴女が必要なんだ。俺は貴女が……」
ハクロは言葉に詰まった。感謝でもない。尊敬でもない。それ以上の感情を、ミコトに対する気持ちをまだ、上手く言い表せない。下手に口にすると、今の関係さえ失ってしまうのではと怯えてしまう。
そんなハクロを気遣うのはいつもミコトのほうだった。
「ありがとう。そう云ってくれるだけでとても嬉しい」
「この気持ち赦してくれるか?」
「赦すも何も、止める権利なんて誰にもないわ。私はただ警告をするだけ。どうしようと最後は貴方の自由よ」
「俺はミコトの力になりたい」
「なら、詩を聴かせて」
「詩……? あの、女神が詠った鎮魂歌のことか?」
「そう。そうすれば元気になれるから」
「分かった」
ハクロは軽く深呼吸を繰り返し、うろ覚えの旋律を思い出しながらゆっくりと、ミコトが快復するよう願いを込めて口ずさむ。
それは、魔法と呼ぶにはあまりに拙い言葉の連なりではあったが、確かにミコトの魂に届いた。淡い光が朧気な彼女の輪郭を包んで癒す。滲み出る汗が止み、呼吸も落ち着いてきた。
「ありがとう。楽になったわ」
横たわったままミコトは微笑む。多少は楽になったようだ。しかし気休めにしかならないだろう。ハクロを励ますために無理をしているのが明白だった。歌詞や旋律が曖昧なせいではない。ハクロには回復魔法を使う能力が備わっていないのだ。
それでも、詩には人を癒す効果がある。
依然として予断を許さない状態ではあるが、危機的な状況を脱することはできた。
全文を聴いたわけではないので確かなことは言えないが、鎮魂歌を創ったのが真実、女神であるならば、特別な力が宿っていても奇怪しくない。そこに重要な鍵が隠されているのではないか。
ハクロは歌詞を書き出す。
こちらは栞のそれとは違って簡単な語句ばかりだ。誰でも詠えるようとの作者の配慮が窺える。たとえ女神でなくとも、心優しい人物が創ったのだろう。
一節ずつ丁寧に検証していくと、ある文字が眼に留まった。
栞に刻まれた難文にも理解できる単語はいくつかあるが、そのひとつと符合している。それは、
「物語か……」
たった一字だが、しかしロザリオと鎮魂歌の両方に共通している。手掛かりとするには余りにか細く、牽強付会と云わざるを得ないが、そこに重大な暗示が隠されている気がした。
ハクロは意を決して立ち上がる。
「ミコト、此処にいても始まらない。一緒に麓まで下りて、治療法を探そう」
「私は此処で待つわ。貴方だけでお行きなさい」
「傍を離れないと約束しただろう。ミコトを独り置いていけるものか」
「だけど私……自力で歩けそうにないわ」
「大丈夫。俺に考えがある」
ハクロは泉に浸かると中心へ向かって泳ぐ。浮かぶ睡蓮からできるだけ大きな葉を選んでいくつか摘み取った。
岸に戻ると睡蓮の葉をミコトの下に敷き、持ち上げてみる。
すると蓮と共にミコトの躰が宙に浮いた。
その重みを感じながらハクロは破顔する。
「よし、これなら運べそうだ」
「どうしてこんなことが出来ると思ったの?」
「ずっと一緒にいれば気がつくさ」
何故かミコトは人や人工物には触れられない。しかし水や大地、森の樹々や野生動物には触れている。共に暮らす中で観察するうちに分かっていたことだ。
ただし、加工すると人工物と見做されるらしい。自生する樹木や倒木には触れられても、小屋に使った木材は素通りしていた。つまりミコトに触れるためには素材をそのまま使うか、或いは着物のようにミコトの魔力の支配下に置けばいい。
魔法を使わせて体力を消耗させるわけにはいかないので自然をそのまま利用するしかない。ハクロが採取した時点でどうなるか不安だったが、どうやら条件を満たしているようだ。
初めて感じるミコトの重みに耐えられるよう、ハクロは睡蓮を幾重にも重ねていく。背後から刺さるような視線を感じて振り返ると、頬を膨らませたミコトが睨んでいた。
「私そんなに重くないわよ?」
「念のためだ。恥ずかしがることはない。重みがあるということは、ちゃんと生きている証拠だからな」
「乙女心は複雑なの」
「それでも俺はミコトの存在を実感できて嬉しい」
「嗚呼、そんなふうに云われると益々拗れてしまいそう……」
「夜明けとともに出発する。それまで休んでいてくれ」
「もう一度詩を聴かせてくれるかしら?」
「分かった」
ハクロは首肯し、詩を詠った。
※
やがて――僅かに東の空が白み始めた。
装備を整えたハクロは、小鳥の囀りを合図に小屋を出る。泉にはまだ夜の帳が降りているが、小動物の動き出す気配で朝が近いと分かった。
蓮とともにミコトを抱き上げ、背中に縄で括りつける。ずっと苦しそうにしているが、現状は小康状態にある。
小屋の裏手に回り、大鎌を手にする。墓場から移り住んで以来ずっと使ってないが錆びついてはいない。さらしで刃を覆い隠し、使う機会が訪れないことを祈りながら腰に携える。
――必ず助けてやるからな、ミコト。
大切な人を気遣いながら、ハクロはゆっくりと歩き出す。原因不明の病の治療法を求めて山を下りた。
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