第9話 過去の亡霊③
「太陽が滅ぶって――空に浮かんでいるあの太陽が消えるとおっしゃるのですか?」
入墨の娘は驚き、片手を前にかざして上空を見上げた。
視線の先には、大地を照らす陽の光で満たされている。
太陽は地平の彼方に沈んでも、次の日にはまた砂丘の稜線から現れて、毎日この地に暖かい恩恵を齎してくれる、普遍的で絶対的な平和の象徴だと思っていた。闇に閉ざされた未来なんて、想像するだけで身が凍えてしまう。
日蝕の原理を知らずに聞けば一大事に思えるだろう。
黒武者も精悍な眼差しで天を睨みつける。嘘を吐いているようには見えない。その双眸が何を見据えているのか定かではないが、凶兆を予感するには充分だった。
「日蝕自体は別にあり得ない現象じゃねえ。太陽とこの世界を結ぶ軌道線上に月が重なることであたかも消えたかのように見えるだけだ。それは一時的なもので、月が軌道線上から外れれば太陽はまた顔を現す。完全に消滅するわけじゃねえんだが……」
「では、無闇に心配する必要はないのですね?」
「それだけならな。問題は、日蝕が起きることで大地の力が弱まり、天の力が強くなる点だ。天の力が活発になると、その気配に中てられて、普段は大人しい獣も凶暴化してしまうんだ」
「蜥蜴が暴れだした原因も、その日蝕にあるのでしょうか?」
「ああ。そして、ある条件を満たした日蝕は、通常のそれよりも遥かに強大な副作用を起こす。天の力は大きく増幅され、月の引力に導かれて宇宙に広がる闇に扉が開く。そしてある者の封印が解かれ、この世界に黄泉返る」
「奇跡のような話ですね」
「奇跡じゃなくて魔法だよ」
「違いが解りませんが、それで……誰が生き返るというのです?」
「そいつは俺の知る限り、最も強大な魔力を誇る神の化身だ。全ての世界を創り変えられるほどの力を持ち、万物から悉く畏れられ、忌み名を知ることさえ禁じられてるんだ。代わりにふたつ名を与え、俺たちはこう呼んでいる。そう――」
『ストーリーテラー』と。
「すとぉりぃてら?」
「要するに語り部のことで、この世界の創造主ってわけさ。『はじめに言葉があった』って台詞、聞いたことがあるかい?」
「いいえ。ですが、巫女や祈祷師の類でしょうか……神託を賜る御方なのですね?」
「そんな好いもんじゃねえよ。新たな世界を創るってことは今ある世界を壊すってことだ。ストーリーテラーはな、世界を根本から創り直すために――最後の審判を下すために現れるんだ」
「最後の審判、ですか」
「強力な魔法で死者の眠りを覚まし、これまでこの世界で生きてきた全ての者に罪を問うんだ。そして、正しき者は次の世界で永遠の生を受け、間違った者は永遠の死を与えられるという」
「素晴らしいですね」
「そうか? 俺はそうは思わねえ」
「だって、正しく生きていれば死なずに済むのでしょう? 悪者のいない世界でずっと幸せに暮らせるってことじゃありませんか」
「じゃあ訊くが、正しさってのは何だ?」
黒武者は娘を睨みつけた。瞳には禍々しい気配が込められている。触れようものなら一瞬にして焼け爛れてしまいそうだ。
「お嬢ちゃんはこれまでずっと正しく生きてきて、これから先もずっと間違わずに生きていけると言い切れるのかい? ついさっき、自ら命を投げ出そうとしていた者がか?」
「それは――」すでに自分は不義を働いてしまっている。娘は震え、自らの躰を抱いた。「私はもう、助からないのですね……」
「お嬢ちゃんだけじゃねえ。最後の瞬間まで正しくいられる者なんて一人も居ねえさ。人間は間違う生き物なんだ。命が懸かれば尚更だろう」
「世界は滅びるのでしょうか?」
「それを阻止するために俺は、こうして世界中を行脚しているんだ」
「御武家様はこの世界を救おうとなさっているのですね?」
「そんな大それたモンじゃねえ。俺がやろうとしていることは……」
黒武者は云い淀んで視線を外した。強い覇気が鳴りを潜め、僅かな陰りが見えた。
だが、その機微を察知するだけの洞察力は娘にない。ただ不思議そうに小首を傾げるだけだった。
「良く解りませんが、それでも御武家様は、世界の破滅を防ごうと奔走されているのでしょう? どうすればその、すとおりぃ……」
「ストーリーテラー」
「と、やらの復活を止められるのでしょうか?」
娘の問いに、黒武者は俯いたまま答える。
「……スケープゴートを捧げれば、或いはな」
「すけいぷごうと、でございますか?」
「伝説によると、女神の寵愛を受け、聖なる力をその躰に宿した女を生贄に捧げれば、復活は阻止できるとされている。俺はその加護を欲しているのさ」
「私は神に愛されてはいなかったのですね」
「気を落とすな。繰り返すが、女神だの死神だの――神だの。そんなものはこの世に居ねえんだ。居ない奴から愛されたって一文の得にもなりゃしねえよ」
「解りません。であれば、居もしない女神からどうやって加護を授かるのでしょう? 存在しない神がどうやって復活するのでしょう?」
「良い質問だ。お嬢ちゃんは世間を知らなくとも頭は回るな」
「誂わないでください。何か絡繰りがあるのでございましょう?」
「無いものを在るとした方が得する輩がいるってことさ。ストーリーテラーだって真実存在するかどうかは疑わしい。それでも人は畏れ、予防線を張りたがる。俺のようにな。そして、人が動けば金も動く。つまりそういうことさ」
「その、得をする誰かが嘘を流して、世間を欺いているということでしょうか?」
「おそらくな。混乱に乗じて利益を掠め取ろうってな、火事場泥棒くらいに下衆な考えだが、どうやら黒幕は馬鹿じゃねえ。巧妙で強かだ。なかなか尻尾を掴ませやがらねえ。下手人は間違ってもその辺の破落戸なんかじゃないだろう。絶大な権力を持つお歴々か、はたまた……」
「慧眼でございます。騎士様は千里眼もお持ちなのでしょうか」
「なに、一歩世間から退いて斜に構えてりゃ、視えないものも見えてくる。根拠の無い当て推量さ」
そう嘯いて黒武者は他所を向いて立ち上がった。その背にはどこか陰鬱な影が視え隠れする。
無頼を気取っているようだが独りなのだろうか。これだけの武人であれば慕う者も大勢集まりそうなものだが……若そうだし、まだ名を馳せてないのだろう。いずれ各地の領主も放っておくはずがない。
名の知れない黒武者は振り返ると黒い翼を羽ばたかせた。
「それじゃ、そろそろ行くわ」
「もう旅立たれるのですか?」
「お嬢ちゃんはハズレだと判ったからな。もう此処に用は無え」
「その――すけいぷごうとは見つかるでしょうか?」
「さてな。居ないなら居ないで諦めもつく。一人だけ犠牲にして助かろうなんて考えは端から持ってねえ。最後までいがみ合って、全員仲良くくたばっちまえばいいんだよ」
「また極端なことを仰る」
冗談と別っても胸が透く思いがして少しだけ笑った。
二人の間に冷たい風が吹き抜ける。
娘は名残惜しさに口を開く。
「あの、何かお礼をさせてくださいませんか?」
「礼ならもうもらったよ」
黒武者は、娘の衿を抓んで云った。
墨が彫られた細い首の下に白い肌が覗く。
「またそういういやらしいことをなさる」
娘は冗談めかしてぴしゃりと手を打つ。
しかし、死神を名乗る黒武者は逆にその手を掴み、躰を引き寄せて間近に迫った。
「そうじゃなく。お嬢ちゃんの命は俺が預かったってことだ。断りなく勝手に死ぬことは許さねえ。善く肝に銘じておきな」
腰に手を回されているが、悪い気はしない。
娘は頬を染めて頷いた。
「承知致しました。深く心に刻みます」
「良い娘だ。素直さに免じて道連れは勘弁してやるよ。お嬢ちゃんはもっと地に足を着けて、達者で生きな」
「有難いお言葉ですが……」
「どうした? 好きにしていいって云ってんだ。どこへなりと自由に向かえばいい」
「ですが、私には生きる意味が見当たりません。いずれ滅びる運命と知ってこの先、何を目的に生きていけば善いのでしょう?」
元より生きることに意味なんて無いと思っていたが、黒武者に救われ、価値観が揺らいだ。この若き黒武者が現れなければ、確実に死んでいただろう。どんな縁が結ばれたのか入墨の娘には知る由もないが、救われたことに運命を感じる。そして、その流れを翻弄した張本人であれば、何かしらの指針を示してくれるのではないかと思ったのだが、しかし――黒武者は大きくため息を吐き、意外な言葉を口にした。
「甘えるな。んなことは自分で考えろ」
「そんな……ずいぶん手厳しいのですね」
「俺のことを信用し過ぎなんだよ。今日会ったばかりなのにもう深い仲になったつもりか? さっき話したような、火事場に紛れてるだけの小悪党かもしれねえんだぞ」
「命を救ってくれたうえに、こうして身を案じてくれている御方なのに、それでも疑えと仰るのですか?」
「言葉なんてものはいつだって詭弁で、後講釈だ。結果が良けりゃ手柄にして、悪けりゃ知らん顔だ。そうだろう? 運命なんて都合の良い言葉で自分を誤魔化すんじゃねえ。辛くても、苦しくても、他人に己を任せていたんじゃお前、一生奴隷のままだぞ」
「ですが……」
「大丈夫、お嬢ちゃんには賢い頭脳と健康な躰があるじゃねえか。どうせ生きることに意味なんかありゃしねえんだ。死ぬ気になりゃ何だってできるさ」
黒武者は白い歯を見せた。
煙に巻かれたような気もするが、娘の心に巣食う影が鳴りを潜めていく。
「谷は深いが太陽の方向へ道なりに進めば次第に浅くなるだろう。水場もあるし、その足でも二日も歩けば街へ着くはずだ」
「あの、飛べるのであれば村まで運んではもらえませんか?」
「なんだ、村に戻りたいのか?」
「はい」
「厭な思いするだけだぞ」
「どんなに酷い仕打ちを受けても生まれ育った故郷ですし。村の衆にも事情を説明して、安心させてやりたいのです。後生ですから、せめて一晩くらい泊まっていってください。大した持て成しはできませんが、酒くらいは何とか用意致しましょう」
「悪いが、それは色んな意味で不可能だ。俺は下戸なんだよ」
「あら、意外ですね」
「それに此処はもうすぐ闇にのみ込まれる。一刻も早く立ち去ったほうがいい」
「蜥蜴なら御武家様が退治してくれたではありませんか。これ以上まだ何か災いが起きるとでも云うのですか?」
「一時的に改善しただけさ。邪気は、風の流れが悪い所には何度でも溜まるものなんだ」
「なら、尚更戻って報せなければ」
「だから、礼もいらねえし、報せる必要も無えと云ってるんだ」
「なぜですか?」
食い下がる娘に、黒武者は頭を掻いた。焦燥に駆られるように、眉間に皺を寄せている。答えあぐねたようで、直接的な方法に訴えた。
「まあいいや、どうせいずれ判ることだしな、実際に見せたほうが話が早い。こっちへ来い。落ちないようしっかり掴まれ」
黒武者は娘を抱えると鴉の翼を羽ばたかせて宙を舞う。大地を蹴って勢い良く飛び上がった。
増していく速度に重力を感じるが、落ちていく浮遊感とは違い、風を切って昇っていくのは爽快だ。
しかし。
黒武者は羽ばたくのを止め、雲の切れ間で静止する。
上空から俯瞰する景色は一変しており、村の変貌ぶりに娘は眼を見張った。
「そんな――これは何かの間違いでは……」
「いいや、見ての通りさ。よく刮目して記憶に留めておけ。これが答えを誤った者たちが辿る末路だ」
眼下に広がる光景は、もはや村と呼ぶにはあまりにも変わり果てていた。
家が無く、納屋も厩も無い。
人の姿も暮らしの痕跡も何も無い。
削り取られたように村は消え、代わりに広がるのは巨大な影だけ。
ほどなくして村は――地図と歴史から忘れ去れた。
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