第2話 死神の初恋②
それは女だった。
墓場には男に混じって女剣士もやってくる。幾度か刃を交えたこともある。だから別に女が珍しかったわけではないのだが。
どう見てもこの場にはそぐわない。似つかわしくない。
歳は二十前後だろうか、ハクロよりは上だが、およそ血なまぐさい戦場とは無縁の、純潔そうな顔立ちをしていた。一瞥しただけなら少女と見間違えそうである。
非力そうな女が単独で、どうやってこんな伏魔殿までやって来られたのだろう。華奢な腕では木剣さえまともに振れないのではないか。大型の獣に襲われればひと溜まりもないだろう。
無防備すぎる。武器はおろか防具さえ碌に身に着けていなかった。薄手の着物だけでは瘴気を防ぐことさえ難しいはずだ。数珠を手にしてはいるが、しかしどうやら尼というわけでもなさそうだ。見慣れない文字と図形を白い首に刻んでおり、そこから妖しい気配を漂わせている。
鬼か妖にでも魅入られているのだろうか、女は身を隠すでもなく、勇ましく登場するでもない。ただ何かに導かれるように、ゆっくりとした足取りでハクロの許へとやってきた。
普段なら僅かな臭気や足音だけでも察知できるのだが……あろうことかハクロは、間合いに入られても気付くことが出来なかった。
睡魔のせいもあるが、まるで殺気を感じなかったのだ。互いの息がかかる距離まで接近され、ようやく異変を察知した。
覚醒したハクロは顔を上げ、眼が合った瞬間に後方へ飛び退る。
同時に鎌を薙いだ。
純粋に驚き、反射的に躰が動いた。
牽制するつもりも、ましてや当てるつもりも毛頭なかった。ましてや……
誰に弁解する必要もないが、無意識に払ったそのひと振りは悔やんでも悔やみきれない結果となった。
そして。
ハクロは無防備な状態を晒したまま動けなくなった。その手には血濡れた鎌があり、その足許には女が――女だったものが横たわっている。
その胸にハクロの大鎌が刺さったまま、動かなくなっている。
手先には未だ生々しい感触が残っている。鎌を通して脈動が伝わったが、その循環は激しく乱れ、急激に弱まっていくのを感じた。瞬くうちに血の気は失せていき、痙攣が収束していく。そして女は――
死んだ。
殺してしまった。
同族を。同胞を。
ハクロが初めて人間を殺めた瞬間である。
迸る鮮血とともに蒸気をあげていたが、今はもう黒く汚れて地面と同化している。流れた液体と同様に残った抜け殻もいずれ土へと還るだろう。それが自然なのだが……。
――奇怪しい。何かが変だ。
――何だろう、この女は。
死を常に身近な存在として接しているハクロにとって、女の死に様は異様というか、不自然に映った。
人間だろうと動物であり、自然の一部なのだ。闇に包まれたこの墓場では後ろ暗い本性を発露させる者が絶えない。ハクロはこれまで幾度となく惨い私刑を目の当たりにしてきたのだ。
斬首。鞭打ち。磔。火炙り。水責め。皮剥ぎ。鋸引き。生き埋め。その他諸々――。
ある者は失禁し、這い蹲って命乞いをしていた。
ある者は惨殺されるくらいならばと自ら舌を噛み切った。
ただ死ぬことでさえ避けたいだろうに、他人に殺されるとなればさらなる恐怖が重なる。誰もが苦痛に顔を歪め、泣き、狂い、乱れて死んだ。
多くは男だったが、女だからといって例外ではないだろう。
深く心臓を貫いたとはいえ、即死ではなかった。相当苦しかったはずなのに。
痛かったはずなのに辛かっただろうに悲しかっただろうに恨めしかっただろうにそれなのに。
鎌を振った瞬間からずっと視界に捉え続けていたのだが、この女、
――笑っていたのか?
咄嗟だったとはいえ、標的から眼を離すようなミスをハクロは犯したりしない。だから、女もずっと視線を送り続けていることに気がついた。見間違いではない。ハクロを見つめるその眼はたしかに――笑っていた。
今も僅かに口許が緩んでいる。
何かを伝えようとしていたのだろうか。しかし聞くことは叶わなかった。死に際でさえ女は、まるで声を発しなかった。
意図的な沈黙だったように思う。
喘ぐ息には高い音が混ざっていた。喉が潰れていたわけではない。痛みはあっただろうに、それを訴えるでもなく慟哭するでもなかった。
ハクロは、これまで数多くの獣を喰らってきたが、笑って死ぬ生き物など見たことがない。例えそう見えることがあったとしても、それはこちらがそう感じるだけで、感情として笑う生き物など自然界には存在しない。ならば人間は――
人間は今際の際でも笑うのか?
ハクロは頭を振って否定した。
死は根源的に遠ざけられる存在だ。
嫌われるものは捨てられ、隠され、無かったことにされるのだ。
忌み子として生まれ、死神と呼ばれるようになったハクロのように。
ならば。
この笑顔は何を表しているのか……。
幼いハクロには皆目検討もつかなかった。
――怖い。
――怖い。怖い。
――怖い。怖い。怖い。
解らないものが在ることに、ハクロは畏れをなした。
ぬらり――
と、黒い影が現れた。
視えざるものが視界に這入った。
乾いて血走る瞳を固く閉じる。
視えるからいけないのだ。
在るからいけないのだ。
理解を超えた存在にハクロは怯え、敬い、奉る。
女だったモノの前で跪き、解らないモノに平伏して、全てを無かったことにしようとして――牙を剥いた。
食べてしまおうと考えた。
――殺したからには食べなければ。
殺しておいて食べないのは命に対する冒涜だと思えた。
得体は知れなくとも、残った躰は肉の塊なのだ。それだけは間違いない。それこそ放っておけばいずれ腐って原形を失うのだろうが、ハクロは眼を逸らすことも、逃げ出すこともできなかった。
一種の錯覚で、呪いのようなものである。
引き金となったのは女の笑顔だ。
言葉を交わすことさえ叶わなかったが、ハクロはその微笑みに魅せられてしまったのだ。妖艶な魔力の虜となり、催眠にかかったような状態である。だが、拘り、縛り、冷静な判断力を欠いたのはハクロ自身の心に起因する。
在るべきではないものがそこに在るから。
己の中で矛盾が生じないよう、食べて無くしてしまおうと無意識に選んだ結果なのだ。
鎌を手離すとハクロは、立って歩けるようになってから初めて地に両手を着けた。震える躰を必死に諌め、飢えた野犬のように首を突き出す。整った女の首許に顔を寄せていく。
乱れた髪から流れる芳香が鼻腔をくすぐる。
近くで見ても肌の質が細かい。
品の良さについ見蕩れてしまう。
迷いが生じた。犬歯が喉に触れそうな距離で思い止まる。本当に、
――本当に食べるのか?
――同じ人間を?
他に方法はないかと自問自答を繰り返す。だが、未曾有の事件を前に、浅い知恵は堂々巡りを繰り返すばかりである。ついぞ妙案は出てこない。行き着く答えは常にひとつだった。
遠くから物音が聞こえた。
また人間が近づいている。
狙いは死神だろう。
だが今は戦えない。戦いたくない。眼の前に横たわる問題を置き去りにすることは出来ない。見つかる前になんとかしないと。
逸ったハクロが選んだ結論は、唯一出ている答えだった。
喉を鳴らして唾を飲むと、意を決して口を開く。
そして。
女の柔らかな頸に犬歯を喰い込ませた。
唾液が垂れ、血が滲む。
両者の体液が混ざり合ったその瞬間――黒い輪郭がふたりの隙間を埋めた。
何事かと思えば、澱んで虚ろだったはずの女の眼蓋が開かれ、瞳に光が戻っている。漆黒の光彩に己の姿が反射して、ハクロは思わず身を仰け反らせた。
女は、長い睫毛を幾度か瞬かせると静かに身を起こした。
否。
躰は泥土に塗れて横たわったままだ。赤黒く濡れた女だったものから、同じ姿をした別の女らしきものが浮かび上がってきたのだ。鼓動を停止させた残滓とは違い、肌には赤みが差している。たしか殺す前はこんな感じだったか……すでに記憶は朧だが、屠る前に眼にした残像と重なる。
だが、その姿は明らかに他の生き物とは異なっていた。浮いた女の躰は虚ろで、向こう側が透けて見える。足も地面から少し離れているようだ。
ハクロにとって、初めて眼にする異様な光景だった。名状しがたい現象を説明する適当な言葉を探すことは、まだ死神としての自覚が足りない。しかし、それでもこの世の理は解っているつもりでいた。
形あるものは必ず変化するのだと。
死ねば朽ち果て、やがて土に還る。蟲が喰い、魚が喰い、そして人が喰う。そうやって万物は流転するのが自然の法則である。
人間と謂えども例外ではない。輪廻から抜け出し、死んでなお形を留めることは、あってはならないことだ。
ならば。
見えているなら生きているのか――?
しかし。
足許には確かに女だったモノの躰が残っている。この事実をどう捉えればいいのか。混乱しつつも、ハクロは必死に思考を巡らせる。
逡巡する間にも女の実体は浮遊した方へ移ろいでいく。僅かだが生命力を感じられるようになった。
女は下方へ視軸を移す。己の亡骸を眼にすると、胸に突き刺さったままの鎌に手を伸ばした。だが、刃に指を這わせようとしても通り過ぎてしまう。幾度か試していたが結果は変わらない。
ため息をひとつ吐くと女はハクロに向き直った。
また視線が交差する。
女は華奢な指先を己の口許に滑らせる。血糊が薄く広がり、紅を引いた。いつの間にか切っていたようだ。ハクロの血が付着している。その血は赤く、
女の血は黒かった。
やはり人間ではない。
ハクロは鎌を引き抜いて持ち直す。だが構える必要はなかった。
女に敵意は感じられない。寧ろ好意的な表情をしている。
屈託のない表情を前にハクロはまたしても硬直してしまった。
女はハクロに近づき、動けなくなった躰を優しく包み込む。実体が無いにもかからず、女から温もりが伝わってくる。
戸惑うハクロを余処に、女は破顔した。嗚呼――
「ハクロ、やっと逢えた」
死神の苦悩が始まった。
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