第3話 やさしいヒト
再起動すると私は緩んだ首輪を締めなおした。
首輪はキズナを制御する枷となっているので外すことができない。もしも外してしまうと自我を失ってしまうから注意が必要だ。
また、首輪にはマリオネットを一意に識別するための名前と製造番号が刻まれている。その無機質な記号の羅列は気に入らないが、ご主人様がつけてくれた名前は悪くないと思っている。
マリオネットの名前は絶滅した植物から由来するものが多く、勿忘草もそのひとつだ。
首輪についたネームプレートの位置を正すと裸のまま姿見の前に立つ。
小さい鏡だが私の身長も低いためすこし離れれば全身が映る。
特に異常がないことを確認すると今度は顔を近づけて首許を覗きこんだ。首輪の付近にはネジや鋲が穿たれているのだがこれはニキビのようなものなので気にしても仕方がない。
が、それとは別にただ一点――
穴だ。
胸の谷間に空いている小さな穴だけだけは見ていて憂鬱になる。
詩的な表現ではなく、文字通り空いているそれは鍵穴の形をしており、いわば烙印のようなものだ。
人間とマリオネットとの決定的な違いがこの胸の奥に秘められている。それこそが私たちマリオネットをたんなる傀儡から知的生物の究極系へと飛躍させた人工知能――
キズナである。
マリオネットは頭脳ではなく、心で考えているのだ。
基本設計をデザインしたかの天才科学者は世間で語られる人物像とは違い、案外ロマンチストだったのかもしれない。
だがそれにしても。
服を着れば目立たないし、魔女狩りに遭うわけでもないのだが……
私はその場で回転し、改めて己の姿を見てため息をついた。
胸の穴には間違いなくキズナの本体が埋め込まれている。
気にならないわけがない。
自分を外側から俯瞰しているような奇妙な感覚。
そこに在るのは自分なのに、今考えている自分とは一致しないような歯がゆさ。
「どうした、師匠。気持ち悪さを表すパラメータが28パーセント上昇しておるぞ」
そんな私の心境などエロパンダには慮れるわけもなく、私が身を翻す様子をニヤニヤしながら見つめていた。
「そんなパラメータは存在せん。具体的な数値をあげてくれるな」
「客観的事実だ。なんならグラフ化してやろうか?」
「いらん。論破好きか、お主は」
「負けず嫌いといってくれ」
「思春期の乙女のような振舞いをしておるくせに……そんなに穴が開くほど見つめたってきれいになったりはせんぞ」
「ふん。私はただ、不具合がないかチェックしておるだけだ。それにこれは朝の準備運動も兼ねておるのだよ」
「ほほぅ、それでは胸を寄せているのも体操ということか?」
「そ、そうだぞ。こうやって人間でいうところの胸筋を鍛えておるだ。脂肪なんて重たいだけで防具にもならない。戦闘時には邪魔になるだけだからな。決してサイズを気にしているわけじゃないぞ!」
本当はもう少し大きくても良かったんじゃないかと思わなくはないが、このボディをデザインしてくれたご主人様に不服を申し立てるつもりはない。彼はきっと小さい方が好みなのだ。
たぶん。
ひと通り点検し終えるとクローゼットからエプロンドレスから選び、胸の前で広げた。戦闘時はミズギを着ているが、普段はハウスメイドとしてご主人様の身の回りの世話をしているのだ。
ワンピースに袖を通し、エプロンを首から下げた。髪をうしろでふたつに縛って身支度を整え終えたころにはもう時刻は午前5時を回っていて、太陽が地平線を照らし始めていた。
夜明けが近い。
外からスチームの噴射音が聞こえてきた。
蒸気エンジン飛行機が飛び立つ音だ。
私はフライトを眺めようと、出窓を開け放つ。
向かい風に煽られ、ツギハギだらけのカーテンが揺れた。歯車のついた風見鶏も勢いよく回転している。すぐ上空を飛行機が通過していったのだ。
靄がかった空に乱反射する朝日に手をかざしながら私は目を細める。
眼下に広がるのは、リュウキュウと他のコロニーを繋ぐカデナ飛行場が。
さらにその先には地平線の彼方まで続く灼熱の砂漠。
そして視軸を上にずらせば漆黒の宇宙空間がいっぱいに広がっている。コロニーの外郭は透明のシールドで覆われており、内側からでも満天の星空を楽しむことができるのだ。
また一機、滑走路をタキシングし、加速しながらふわりと浮いた。
機体はそのまま高度をあげて上昇し、天空に開かれたハッチから宇宙へと飛び発っていく。
不安定な大気には太陽風で煽られてできたオーロラが不定形なキャンパスを形成しており、そこに一筋の白線が引かれる。残った飛行機雲の輪郭には切れ目がなく、どこまでも鮮やかに続いていた。
それを追いかけるように飛ぶ鳥の一群がみえた。編隊を組み、上昇気流にのって羽ばたいていく。
ヤンバルクイナの亜変種だろう。戦争によって多くの動物が絶滅してしまったこの地上において、いまだ力強く生き残っている数少ない野生生物で、生き残るために翼を鍛え、直接降り注ぐ紫外線にも耐えられる体へと進化させている。
先祖は飛べなかったのに。
邪魔するものもなく、上空から世界を眺められるなんてさぞかし気持ちが良いだろう。自由に飛べて羨ましいと思う。
私も遠くへ行ってみたい。
いつかあんなふうに羽ばたけるだろうか。
じっと耳を澄ませたが、飛行機も鳥もすでに遠くへと消えていた。
かわりに私は瞳を閉じ、心躍るような未来を想い描く。深く呼吸を繰り返し、一日の気分を高める。
朝一番のフライトはいつ見ても清々しい。
早朝であればまだ、夜の間に浄化された空気が滞留している。もう少し陽が昇るとアスファルトからの照り返しもきつくなるだろう。
私は片手で庇をつくりながら言った。
「今日も良い天気になりそうだな」
「暑いのは苦手なんだがなあ……」野生を失ったパンダが顔をしかめる。
「私は嫌いじゃないぞ。絶好の洗濯日和ではないか」
「だがこう毎日ではな。コロニーのおかげで雨も遮られておるし……一度でいいから思い切り水浴びしてみたいものだ」
「なにをいうか。酸性雨なんて浴びたらボディが溶けて今よりよけいに醜くなってしまうぞ」
リュウキュウは砂漠の真ん中にあるため滅多に雨が降らない。
よくこんな荒地で暮らせるものだと感心するが、大昔は砂漠ではなかったらしい。電子図鑑で観るそれは、肥沃な大地に雄大な河が流れ、今では貴重な水――海というらしい――が一面に溢れていた。ここはその大量の水に浮かぶ島だったのだが、しかし――
蒸気機関が発達し過ぎたためだろう。
先の大戦で水源を大量消費し、干上がらせてしまったのだからすべては人間が招いた結果である。
だが、どんなに後悔したところで過去を変えることはできない。
私たちは人工的に建造されたオアシスで今を生きていかなければならないのだ。来たる宇宙大航海時代に備えて蓄積されてきたテラフォーミング技術だが、真っ先に適用されたのは母なる星だったというオチである。
宇宙は膨張しているけれど、人類はその広大なフロンティアを開拓する前に、もう一度足許から見直し、地盤を固めなければならない。はるか彼方から私たちを観測している者たちがいるとしたら、きっとその滑稽さを笑っているに違いない。
世界各地に点在するコロニーどうしですら交流は、いまだに盛んとはいえない。このリュウキュウも他との国交が正常化したのはつい最近のことである。
ご主人様も他のコロニーからこのリュウキュウに移住してきたのだそうだ。
住まいはリュウキュウの王都付近、その南西寄りに位置するカデナ飛行場の敷地内にある。払い下げてもらった格納庫のひとつを修繕し、格安の賃料で間借りしているのだが、この仮住まいに併設されているガレージはご主人様の工房となっていて、私が初めて起動した場所になる。
以来ずっとこの家で暮らしており、ふたりと一匹で身を寄せ合っている。
ご主人様に本来の家族はいない。
なぜいないのかは聞かされていないし、私もよけいな詮索をするつもりはない。わざわざこんな乾燥した辺境のコロニーに単身住みついているのだから、きっと深い訳があってのことだろう。東に位置する新市街地・コザまでは距離があり、利便性は悪いが、小高くて見晴らしの良いスケールは割と気に入っている。
まあご主人様といっしょならば、どこにいたって住めば都だ。
しかし、街から離れているとはいえ、ここも外の空気はあまりよくない。コロニー内といえども完全に清浄化するまでにはまだ何十年もかかるらしい。いつまでも窓を開け放していると砂が舞い込んでしまう。私は庇にぶら下げているブリキ缶を手にとり、中身を零さないよう大事に抱えた。
これはご主人様が作ってくれた蒸留装置で、ブリキの中には夜の間に結露してできた水滴が屋根を伝い、溜まっていく仕組みとなっているのだ。集められた水は消毒液臭い人工水や砂の混じった泥水じゃなく、煮沸しなくても充分に飲める。きれいに澄んだ天然水だ。
煤けた街並みに背を向けて窓を閉める。
ベッドに腰かけるとふたを開けて口をつけ、ゆっくりと飲みこむ。
これが私の一日分のエネルギー源となる。
私は基本的に食事を摂らない。
マリオネットは水だけで活動できるのだ。
上流階級の人間に仕えるマリオネットには蛋白質を摂取する習慣のある者もいるらしいが、それは彼女たちの主人が葉巻を愉しむように、嗜好品として贅沢を覚えさせられただけのこと。
闘うために創られたというのに、闘争本能を忘れて肥え太り、飼い慣らされているのである。まったくもって情けない。
師匠も粉末状の笹を溶かして飲んでいる。
私は顔をしかめた。
「また不味そうなものを入れおってからに……苦くないのか?」
わざわざ不純物を混ぜる意味がわからない。蒸気を生むには少しだけ石炭が必要となるけれど、余分な油は歯車にでも差しておけばいい。私たちは水さえあれば生きていける。他に必要なものなんてないのだ。
「ふん。お子様にこの味はわかるまい」
「舌まで年老いているのではないのか」
「お主も飲んでみるか?」
「遠慮する。もうお腹いっぱいだ」
最後の一滴まできれいに飲み干すと仕事にかかる。
廊下へ出ると、隣にあるご主人様の寝室を開けた。誰もいないことを確認すると、足音を立てないよう慎重に階段を下りていく。
この家には既製品がほとんどなく、手作り感満載だが、飛行機に煽られても傾く心配はない。たとえ修理が必要になっても作り手がしっかりしているため安心だ。
それに前時代の負の遺産ともいうべきだろうか。砂丘の大海原まで赴けば戦時に打ち捨てられたままの廃材がいくらでも転がっている。母なる海とはよく言ったもので、私もそこから生まれたようなものだ。
一階におりると書斎の戸を開けた。
なかはかすかに明るい。机に置かれたランプが点いたままになっている。
一面の壁にはこれまでご主人様が蒐集してきた本物の昆虫や植物の標本がいくつも飾られている。そのうちのいくつかはすでに絶滅してしまっていて、ここでしか見られない貴重なコレクションもあるそうだ。
今では珍しい紙でできた書籍も大量に所蔵されており、棚に納まりきらなくて床にまで積みあがっている。
それ以外にも、使途不明のオブジェがそこら中に転がっていた。
すべてご主人様が集めたり自作したもので、こういう雑多なものに囲まれているのが幸せなのだと彼は言う。
奥に設えられたソファーもやはりご主人様が砂漠から拾ってきて修理したものだ。持ち込まれた当時はベルベッドの生地が破けてスプリングが飛び出していたのだが、今はきれいに修復されている。
その手すりの辺りから息づかいが聞こえ、私はわずかな灯りを頼りに平積みにされた書籍やら工具箱なんかを跨ぎながら物音を立てないようそっと静かに近づいていく。
声の主を確認すると私は腰に手をあて、鼻息をもらした。
ここが一番お気に入りの場所なのだろうが、ベッド代わりにするには少々無理がある。寝相はいいが、身長が高くてソファーの幅が足りていない。肘掛けにもたれた脚が宙に投げ出されている。この無防備に横たわっている人物こそが私のご主人様――、
浅黄水仙その人だ。
「またこんなところで寝て……」
とっ散らかっていて狭く感じるが、ここは隣のガレージと地続きなのだ。仕切られているとはいえ、わずかな隙間から風が通っている。砂漠の気候は昼夜の寒暖差が激しい。明け方は冷えるだろうに……。
風邪を引かないよう、ずれて落ちかけている毛布をかけ直してやる。
ついでに、歳のわりにあどけないその顔をじぃと見つめた。
息をしているのか、生きているのかわからないくらい深く静かに寝入っている。長い睫毛が微動し、そこにわずかな生が感じられる程度だ。
金色に染まった髪は天然で、リュウキュウに多いタイプではない。その外見は機械のように整っているが、彼は純粋な人間である。歯車ひとつついておらず、オートメイルの類は一切身に着けていなかった。
私は、打ちっぱなしの床に転がるご主人様愛用のアビエイター帽に手を伸ばす。ゴーグルを外し、オリーブグリーンを基調としたその帽子に鼻先をつっこみ、なかを嗅いだ。それがここ最近、毎朝行う日課となっているのだが、もちろんご主人様には内緒である。
「お主も吾輩のことは言えんな」
「こ、これはそういうんじゃないぞ!」
師匠に揶揄われ、私は慌てて顔を離して声を荒げた。
それに反応し、ご主人様が眉間に皺を寄せる。唸り声をあげて寝返りをうった。
起きはしなかったが、冷や汗ものだ。
ソファーの前で身をかがめ、声をひそめてパンダに耳打ちする。
「ただ、ここのところ、ご主人様の様子がおかしいと思ってな」
「そうか? 吾輩にはいつもと変わらんように見えるぞ。なにか不審な点でもあるのか?」
「うむ。においが、ちょっとな……」
「におい?」
「そう。この帽子からご主人様らしくないにおいがするのだ」
彼の帽子の内側には合成繊維が詰められている。そこには汗くらいしか付着しないと思うのだが、かすかに繊維とは違った人工的な香りが含まれているのだ。以前は潤滑油や塗料のにおいしかしなかったというのに……。
「なんだかきな臭いというか、焦げたような……、どこかで嗅いだことがある気がするのだが、ぴたりと一致するデータがヒットしなくてな」
「ほほぅ。それはきっとこれだな」
「これとはなんだ?」
「これだよ、これ。女だ」
どうやらこのエロパンダは前足の小指を立てているらしかった。
短すぎてまったく見えない。
「お主のいうにおいとは、きっと香水のことだよ」
「ふん」私は鼻を鳴らして一瞥をくれる。「ご主人様に限ってそんなことがあるものか」
「そうか? 水仙殿は優男だし、見てくれも悪くない。妙齢だしな、モテないなんてことはないだろう。お主も気にしておったではないか、ほれ、名前をなんといったか……そう、《染井吉野》だ」
「誰だそいつは?」
私は横目でご主人様を見ながらきいた。
いや、きくまでもなく私は、一度見聞きしたものは決して忘れたりしないのだが……。思い出したくない記憶だってある。だから、意図的にプライオリティを最下位まで下げているのだ。
だというのに……
思い出してしまった!
あの女の顔を。
あの人間の声を。
染井吉野の姿を!
ご主人様と同じく染井は傀儡師のひとりである。
公爵の一人娘だかなんだか知らないが、上流階級がやたらとご主人様に話しかけてきおって。働く必要なんてないだろうに、どうして協会に所属しているのか……。
職務をまっとうするうえでコミュニケーションは必要だから話すだけなら許せもする。が、しかしベタベタとくっつくのはいけない。大きな胸を押しつけて、腕なんか組んじゃったりしてさ。スレンダーな私に対する当てつけか? ご主人様の困った顔が見えないのだろうか。すごく鼻の下が伸びているじゃないか。
鼻といえば、香水というやつも嫌いだ。必要ないだろう、そんな不純物の混ざった水。燃料にもなりやしない。
それに髪。自分で闘わないから長い髪をあんなにきれいに保っていられるのだ。
私だって毎日櫛で梳いて、それから汚れないように後ろでふたつに結んでいるけれど、闘ったらどうしたって泥や埃にまみれしまうんだ。それでもご主人様は『よく闘った』って、私の髪を撫でて褒めてくれるけど、やさしいから気を使ってくれているだけなのだ。
まったく、私のご主人様にちょっかいを出さないでほしい。
――っと。私の、だなんて分を弁えない発言だった。
ご主人様の前だというのに、顔に出ていないだろうか。
「さっきからひとりでなにを興奮しておるのだ?」
「べ、興奮などしておらん。ちょっと嫌な顔を思い出してイラついておるだけだ」
「嫌な顔って……染井譲のことか?」
「そんなやつは知らんと言っておるだろう」
「またまた、あれほどの美人だぞ。忘れられるものか」
「貴様はすこし黙っておれ」
私は師匠のひげを引っ張りあげた。
あの女のことを思い出すとつい、攻撃的になってしまう。
ご主人様もだ。あの女がいるときはいつものご主人様でなくなってしまう。体温が上昇し、脈拍が乱れているのがサーモセンサーで手に取るようにわかる。
他の傀儡師やマリオネットは平然としているのに、なぜ私たちにだけバグが発生してしまうのか……。きっとあの香水になにか私たちを惑わせる特別なウィルスが仕組まれているに違いない。機会があればぜひ検索してみよう。
「そんな香水あるわけがなかろう。おそらく水仙殿は……」
「うるさい!」師匠のくちを塞ぎ、私は大声をあげた。「黙れと言っておるだろう。なんと言われようが私の眼が黒いうちはご主人様に指一本触れさせるものか!」
大声に反応してご主人様の脚がバネのように跳ねあがった。
顔が間近に迫り、眼が合う。
「……やあ勿忘草。起こしに来てくれたのか?」
今度こそ起こしてしまったようだ。
私は慌てて帽子を後ろに隠す。
「う、うむ。二階の寝室にいなかったから、ここだろうと思ってな」
「いま何時だい?」
「5時をまわったところだ」
「そうか……」ご主人様は横たわったまま背伸びをする。「小休憩のつもりがそのまま眠っちゃったみたいだな」
「また夜更かししておったのか?」
「4時には寝たよ」
「それを夜更かしというのだ」
「熱中するとついね……」
そう言うやご主人様は、くしゅんと鼻を鳴らした。
「ほら、こんな所で寝ておるからだ。そのうち風邪を引いてしまうぞ」
「大丈夫。ここにあったかい人がいるから」
「え? なにを――」
問う暇もなく、腕をぐいと引っ張られる。
体を引き寄せられ、そのまま頭を抱えられてしまった。
顔が近い。
意識したとたんに体温が急上昇し、顔が真っ赤になって蒸気が噴き出す。
「湯たんぽ代わりにはうってつけだよな。勿忘草は」そう言ってご主人様は笑った。
「わ、私は湯たんぽなんかじゃないぞ」
「そうか、ボイラーはパンダについてたっけ。だけどどうしてだろう、あったかいことに変わりないんだけど……」
「きっと気のせいだ」
「体はもう平気か?」
「うむ、どこも問題ない。ご主人様の腕が良いからな」
「あんまり無茶はしないでくれよ」
「心配するな。ちゃんと心得ておる」
「そうか、ならいいんだ……」
ご主人様は大きく息を吐いた。
どうやらしどろもどろな私の様子をバトルでの損傷によるものだと勘違いしているらしい。大きな両手から彼の想いがひしと伝わる。
「あの、私は大丈夫だから。そろそろ放してくれないか?」
「嫌か?」
「そんな事はないが、誰かに見られたら」
「誰も来やしないよ。もうすこしだけ、このままで……」
そう囁いて、ご主人様は私を抱いたまま瞳を閉じた。すやすやと寝息が聞こえてくる。彼の胸に片耳を押し当てた変な体勢のまま、私は硬直して動けなくなってしまった。
だけど穏やかな心拍が心地良い。
まあ、だいぶ心配させてしまったみたいだし、すこしの間ならこのままでも……。
ご主人様の腕に抱かれ、とろりと眠気に襲われる。
二度寝しそうになったとろこへ師匠が肩にのってきた。
「相変わらず天然だな、水仙殿は。吾輩、妬けてしまうよ」
「か、勘違いするな――って、貴様なにをしておるのだ?」
みればパンダの瞳孔が野生の獣のごとく赤く光っている。
「なにって、録画しておいてやろうと思って」
「バカ、やめろ映すな! 撮影禁止!」
「吾輩のことはおかまいなく。そのまま押し倒せばよいではないか」
「できるか!」
私はうしろに手を回して師匠の首根っこをつかむ。そのままつまみあげると、勢いよく叩きつけた。だが方向がよくない。ご主人様のみぞおちに向けて全力で放り投げてしまった。
だが直撃する寸前、危険を察知したのかご主人様は、ボールのように丸まったパンダをキャッチした。
「危ないなぁ」
「なんだ起きておったのか」パンダが言った。
「うっかり二度寝しそうになったけど……お、やっぱりお前のほうがあったかいな」
「なんならその湯たんぽと代わってやろう」
「そうだな、勿忘草も嫌がってるみたいだし」
ご主人様はちらりとこちらをうかがう。
「そ、そんな事はないと言っておるだろう。ただ私は、ご主人様との適正な距離をだな……」
「勿忘草。そのご主人様ってのはやめてくれって」
「ご主人様は、ご主人様だ。さあ、もう放してくれ」
「名前で呼んでくれたら解放してあげる」
「それは命令か? ならば……」
「違うよ。これはお願いだ」
「あう……」
ご主人様はなぜか命令をしてくれない。
代わりにお願いだという。それはたんなる言葉の綾ではなく、私のなかで機能するキズナはその違いをしっかりと認識できている。
家事くらいならば自分で段取りできるし、ご主人様の以外の命令なんて聞く気はないけれど。それではなんのために私を創ったのだかわからない。こういうお願いにはどう対処していいものかと戸惑ってしまう。
理由を問うても『他人に強制するのが嫌いだから』という以上の明確な回答は得られないし、きっと自分で考えろということだろう。あんがい女子力を試しているのかもしれない。
だから私は、なんとか期待に応えようとその名を口にしてみるのだが……
「す、す、水……」
尖らせた唇からは空気が漏れるばかりである。
失敗を繰り返すうち、顔はみるみる赤くなり、蒸気を漏らしながらうつむいてしまった。
「ははは、冗談だよ。好きに呼んでくれればいいさ」
いい加減サーモスタットが壊れるのを心配したのかもしれない。ご主人様は私を解放し、体を起こした。
「起きるのか?」
「充分あったまったから。ありがとう」
ご主人様は私の髪に軽く触れ、また笑った。
ソファーからおり、放り出していた羽毛付きの茶色いレザージャケットに袖を通す。それから北に面するガレージのシャッターをあげた。
「待て、いま開けると冷気が入ってしまう。暖炉に火をくべてやるから待っておれ」
「大丈夫。それよりもほら、見てごらん。あとすこしで完成するよ」
ご主人様はガレージに置いてある巨大なオブジェクトを指差した。
つられて私は視軸を移す。その先にあるもの、それは――
一機の蒸気飛行機だった。
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